レモン -13

救済としての物語

NHKの100分de名著という番組を見た。河合隼雄さんの著書に関する回だった。放送されたのはちょっと前なのに、いまになってその内容が思い出される。

参考:https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/78_kawai/index.html

というのも、執筆に関する師匠(私が勝手に言ってるだけ)から幕末期の偉人として山田方谷という人物を紹介され、市立図書館で本を借りてきて読んでいる。

そのなかに、私の考えにも通ずる一文があった。

「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」

天の誠は目標、人が誠であろうとするのは手段、双方は矛盾せず同一のものだという考えらしい。

”まこと”がどのようなものかは定義しづらい。それは理系風に言うと、解析できない関数ということになる。既知の関数として定義できないのだ。

そんなときどうするか。色々方法はあると思うが、近似曲線をとるというのも方法の1つだろう。

1次の関数y=ax+bでまず近似する。2次の関数y=ax^2+bx+cで近似する。以降べき乗関数の次数をあげて近似していく。すると未知の関数に限りなく近くなる。

この「限りなく」というのがミソだと私は思う。

宗教においても、神の理想には人間は届かない。いつだって人間は無様で劣っている。だから努力しなくていいのか?

神を理想とし限りなく近づこうとするのが宗教であるならば、これも近似曲線を作っていく試みに近い。

既出の「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」も、似た考えであると私は思う。天の理想に自分を近づけていくのが人生である、と。

そこで、物語の話である。

科学ならば、この世を支配する法則を見つけるのが目標の1つだろう。古典力学から解析力学、相対論や量子力学と学問は進化し、その度に古い学問体系は新しい学問体系の近似に過ぎなかったということが明らかになったりする。

つまり、人間のもつ技術で宗教における「神」に等しい「真理」を追いかけていると言っていい。

ならば、物語はなにを目的として存在するのか。

必要ないならば、長い歴史のなかでとうに淘汰されているだろう。人間は物語にどんな役割を課したのか。

冒頭に戻る。それは救済のためであると考える。

物語というのは、人間が直面する可能性のある精神的危機を前もって感知し、精神が落っこちるかもしれない穴を未然に防ぐ役割があるのではないかと考える。

河合隼雄さんは、人は救済を求めるとき物語性を求めていると考えていらしたらしい。

例えば夫に死なれた妻が「夫はなぜ死ななければいけなかったのか」と医者に問うたとき、その人を死に追いやった病気の、あるいは事故の話を詳細に語ることは救済ではない。

なにか死という事実に、理由ではなく意味を持たせたいと考える、それが救済を求める人の想いである、と。

物語は、時に異世界を舞台にしたり、ありえない設定や知らない言語が飛び交ったりする。

しかし、それは決して現実を乖離しているわけではない。

科学技術は発展し、人類は絶えず新しい倫理や新しい救済を求める。そこに寄り添うのが物語というツールである。

つまり、物語というのは、”人間の内面”という未知の分野に関して近似曲線を作る試みである、と私は考える。

ありえない設定のSFがあったとして、それが現実にならないとは言い切れない。あるいは人によって現実世界でも共感できる点があるかもしれない。

どんな外的要因に対して人間がどう傷つきどう喜ぶのか、我々は決してすべてわかってはいない。

作家ははじめは売れるために奇特な設定を考え付くかもしれない。しかし、所詮人間の想像できることは実現可能なのである。

そしてどんな物語にも、「意思をもった存在」が居る。それは人間だったり天使だったり獣だったり妖怪だったりする。でもかならず彼らは意思を以て世界に相対している。

その意思をもった存在は、我々に先んじて、精神が世界によってどのように揺れるのか体験してくれている。いわば我々の代弁者である。そして時が来たとき、傷ついた誰かの心の穴に寄り添い、そっと傷口を治すのだ。

春瀬由衣

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