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スタジアムから聞こえてきた『Creep』に立ち尽くして泣いた夏の話

2003年だった。わたしはまだ20代半ばで、仕事は適当、恋愛だけ一生懸命で、新卒で就職した会社をやめてフリーターをしたり派遣社員としてぶらぶらしていた頃だった。

夏だった。当時の恋人と、その友人カップルと車をあいのりして、幕張の夏フェスへ向かった。男同士は同じバンドのドラマーとベーシストとして長い付き合いがあったが、その恋人であるわたしともうひとりの彼女はほぼ初対面で、お互い少しの緊張とともに車中を過ごした。しかし現地へ着いてしまえばそんな遠慮もふきとんで、それぞれが思うがままに好きなアーティストの音楽に踊り、歌い、楽しい時間を過ごしていた。

フェスというのは様々なアーティストが出ることもあり、空き時間があるものだ。もちろん終日野外で動き回っている疲れもある。休憩がてら、海の見えるポジションを確保し、運転手を除く全員で乾杯をした。日差しはまだ強く、海から吹く風は生ぬるかったが、完全にはしゃいでいたわたしたちにとっては、十分な時間だった。

海を見ながら、会場へ向かう車中で何度も聞いた曲を口ずさんだ。

「やっぱり今日、やらないかな?『Creep』」

恋人がなんとなしに言った。今日のヘッドライナーでもある英国のロックバンド、レディオヘッドの楽曲『Creep』。アルバム『パブロ・ハニー』からのシングルで、いわば彼らの代表作だ。当時のわたしたちにとって、いわゆる「神曲」で、酔うと全員が口ずさんだ。あまりに代表的すぎて、ライブではめったに披露されない名曲でもある。

それでも儚い期待をしてしまうほど、何度も聞き込んだ曲だった。20代半ば、可能性だけはある未来にどう向き合っていいかわからず、なんとなくこのまま生きていくのかな、それでいいのかな、と迷う年代。恋人は自分たちのバンドに可能性を感じつつ、会社員でいることを辞められなかったし、わたしもネットにこっそり文章を公開しながら映像制作会社に勤めていて、恋人にすらそのことを話せていなかった。音楽と文章、お互い本当にやりたいことがはっきりしているくせに、それに賭ける覚悟がなかったのだ。

覚悟がなかった、といえば、結婚についてもそうだった。短くない付き合いが続けば、自ずとそういう話題になる。「結婚どうするの?」という問いに、わたしたちも、友人カップルも、明確なイエス・ノーが出せていなかった。特に友人の彼女の方は明確に結婚の意志があるようだったが、友人はそれをはぐらかしていた。このままの時間が続けばいいな、と思いつつ、この先どうなるんだろう、という不安がぬぐえない。そういう気分が薄くモヤのように漂う中を、当時のわたしたちは生きていた。

『Creep』は失恋した自分を卑下するとんでもなくネガティブな歌詞と、対象的に美しいイントロ、荒々しいギターのカッティングが印象的で、当時のわたしたちの気分にフィットしていた。輝かし(く見える)未来と、どうしようもない現状。大切なものはわかっているのに、一歩が踏み出せない弱虫だ、とそれぞれが自分のことを思っていた。だからこそ、この夏フェスの会場で、爆音であの曲が聞きたかった。

「まあでも、無理でしょ」

と友人が諦めたように明るく言い、それを契機にわたしたちはスタジアムへ移動した。

スタジアムでのライブは素晴らしかった。暮れていく空をバックに、ストロークス、レディオヘッドという最高のラインナップを楽しんだ。夕焼けと音楽と、海からの風、最高の環境だった。日が沈みセットリストが進んでもやはり『Creep』は演奏されなかったが、それでもいろんなことを忘れて、目の前の景色と音楽に夢中になった。

だがこの日は日曜日。翌日になったら全員がなんらかの仕事へ向かわなければいけない。アンコールのタイミングでわたしたちは帰り支度を始め、後ろ髪を引かれながら駐車場へ向かった。千葉から神奈川への道のりはそれなりの渋滞を覚悟しなければいけないし、それぞれまだ実家に住んでいたから、全員の家を回っていたらかなり遅くなるだろう。仕事さえなければなー!と口々に文句を言いつつ、わたしたちは車へ急いだ。

聞こえてくるピアノの音に、アンコールが始まったことを知った。悔しいねー!最後までいたかったねー!と叫びながら階段を上り下りして会場を出て、駐車場へ足を踏み入れたとき、恋人が急に立ち止まって叫んだ。

「『Creep』だ!!」

嘘だ!信じられない!という気持ちで足を止めて耳をすませた。風で音が流れていく。じっとよく聞いていると、ギターをかきむしるような「ガガッ」という音。「嘘だろ……」と言いながら恋人がスタジアムを見上げる。わたしも同じように信じられない気持ちで空を見上げた。目に見えるはずはないのに、音が空から降ってくるような感じがしたからだ。

夜空にスタジアムの照明がまぶしく、「君は最高だったのに、僕はなんて気持ち悪いやつなんだ、なぜここにいるんだろう、僕の居場所じゃないのに」というネガティブな歌詞が、心にズドーンと入ってきた。疲れと焦りで満たされた身体から、自己嫌悪を音楽がズルズルと引きずり出していくようだった。

こんなに音楽が好きなのに、なんでやりたくもない仕事のために帰ろうとしているんだろう。なんでこの瞬間、スタジアムにいなかったんだろう。そう思うと急に泣けてきた。同じ気持ちなのかはわからなかったが、恋人も、友人カップルも同じように涙ぐんでいた。スタジアムからサビの大合唱が聞こえる。もうこれ以上、スタジアムから離れたくない。わたしたちは泣きながら、最後まで歌った。

曲が終わり、歓声と拍手の音を聞きつつ、めそめそと車へ向かった。なんでこんな人生を生きているんだろう、好きな曲も最後まで聞けないで、クソみたいな仕事に遅刻しないため帰ろうとしている。なんなんだ、ちくしょう、と思っていると、ドン、という音がして花火が上がった。このフェスのフィナーレだ。ドン、ドドン、と空気と身体を震わせながら無数の花火が打ち上がる中、わたしたちはまた泣きながら車に乗り込み、もちろん『Creep』をかけた。この夜のことは、「もう大切なものから離れたくない」と、恋人がバンド活動のために会社を辞めるきっかけとなった。

その後いろいろあってわたしたちは別れ、本格的に大人になった。お互い結婚し、もう連絡を取ることもないし、会おうと思うこともないが、それでもあの夜のことをたまに思い出す。20代の、ほんとうにかけがえのない時間を一緒に過ごした人。音楽に救われ、涙を流し、自分の背中を押してもらった日々。あの夜に全身で感じた花火の振動は一生忘れないだろう。

あれからだいぶ時間は過ぎてしまったが、わたしはいまこうして好きな文章が書けている。たまにくじけそうになるときもあるが、そんなときはあのときの感情を思い出す。迷っている場合じゃない、好きなものからこれ以上、離れてたまるか。そう思って自分を奮い立たせるのだ。

ありあまる可能性と、なにも選べない臆病さをいまでは懐かしく思う。あの夏は間違いなくわたしを構成する大切なエピソードだ。今年も夏フェスの時期がやってきた。子どもを産んで、気軽に参加することは叶わなくなってしまったが、それでもあの夏に感謝して、今年の夏も大切な人たちと乾杯しようと思う。

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