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【劇評300】死をふりきるために、私たちは旅に出るのか。うさぎストライプ『あたらしい朝』が踏み出した一歩について。5枚。

死の気配

 人のまわりには、さだかには見えないけれど、確実に死がある。まとわりついた死の気配は、払いのけることはできず、どこまでもつきまとってくる。逃げ去ることはできない。

 うさぎストライプの『あたらしい朝』(大池容子作・演出 こまばアゴラ劇場)は、この人類普遍の真実を、ことさらに言いつのることなく、日常として描き、すぐれている。 

 簡素なパイプ椅子に座った男女。舞台、上手上方に、からすのような黒く、くちばしの尖った仮面をつけた女が、「羽田空港」と乱暴に書かれた段ボールをもって、行き交う車を捕まえようとしている。

 異様なのは、この女の仮面だけではない。妻(清水緑)は、夫(木村巴秋)に、車をUターンさせて、あのヒッチハイカーのもとに、戻ろうとせがんでいる。この二人は、新婚であるかのように、甘い空気がある。

 妻は、かわいらしくおねだりをし、夫は、困った顔をしながらもまんざらではない。ハイカーをのせるべきか、のせざるべきか。見知らぬ異形の人を、車に迎え入れる不自然さを、コミカルな寸劇であるかのように見せて、観客を独自の世界に引き込んでいく。大池の劇作と演出は、ありえないことを、ありえるかもと思わせる力がある。

 女(北川莉那)が後部座席にのってからも、ぎこちない会話が続くが、街道沿いのレストランに三人で入るあたりから、空気はさらに一転する。
 葬式帰りの女(菊地佳南)と葬式帰りの男(亀山浩史)のあいだに諍いが始まるにつれて、妻と女が急速に親しくなり、彼らの不可思議な旅がはじまる。

ロードシアターのたのしさ


左から夫(木村巴秋)妻(清水緑)女(北川北川莉那)。簡素で立体的な装置(撮影:西泰宏)



 『あたらしい朝』が優れているのは、旅を、明日には何が起こるかもしれない人生の暗喩としてとらえているからだ。タイトルの通り、「あたらしい朝」が、明るく陽気なものとなるか、暗く不安なはじまりとなるかは、だれにもわからない。
 その期待と待機のなかで、過去の死を抱え込みながら、朝めざめ、一日を送る人の生が、ユーモラスに描かれる。

 ここで描かれる旅は、ひたすら日常から逃れるためにあるのだった。おいしいものを食べようとか、あれもこれも観光しようとか、新たな出会いはないとか、旅人は、新しい刺激をもとめて旅の時間を過ごす。背景にある死を覆い隠すかのように。

 けれども結局のところ、世界の果てまで言っても、旅はいつかは終わらねばならない。非日常に踊り込むためにはじめた旅も、ついには日常に呑み込まれてしまうと、この舞台は語っているように思われた。





 なかには、奇妙なキャビンアテンダントを演じていた小瀧万梨子が、他の場では葬儀社の女になり、さらには観光ガイドと転生していく不思議が重なる。金澤昭が演ずる奇妙の明るい店員は、葬儀社の男となり、さらには観光バスの運転手となる。次第にあきらかになるのは、定型の空々しさである。



旅先の女(菊地佳南)とガイドの女(小瀧万梨子)が旅先で交錯する(撮影:西泰宏)

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。