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【追悼】高都幸男と空中楼閣

 高都幸男さんが亡くなった。最後に会った日を忘れてしまうくらい音信がない。おそらくは、野田秀樹作・演出の「Q」初演のゲネプロもしくは初日だったから2019年の10月が最後だったろうと思う。

 高都さんは、夢の遊眠社の初期から、長らく演出補の重責を担っていた。

 本来の担当は、音響だったけれども、演出席には高都さんがいた。野田さんの初期作品は、今よりももっと、役者としての野田さんの比重が大きかったから、舞台を離れられない。全体を見る演出補がどうしても必要だったのだろう。

 野田さんの気まぐれでゲネプロに呼ばれると、野田、高都、私の三人で、問題点を話し合うことがあった。大抵は、私が一方的に指摘し、野田さんは反論し、高都さんは言葉少なに意見をいった。彼からすれば、とうに考え尽くした可能性だったに違いない。

 高都さんが饒舌になるのは、初日の客席で目が合ったときと、ロビーで行われる初日乾杯の席で、この日の舞台のポイントを実に要領よく解説してくれるのだった。

 もちろん、私が見過ごしたことも多く、批評を書くときとても参考になった。高都さんは私に、見当違いの批評を書かれるのが、きっととても嫌だったのだろうと思う。他の批評家にも同じようなことを話していたのかは、私は知らない。

 私が高都さんにもっとも助けられたのは、『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』(河出書房新社 一九九三年)のことだ。野田さんが毎日付けていた日記のコピーを預かって、分類整理を行った。

 巻末に「めまいの都ーー野田秀樹、あるいは速度の演劇」を書き下ろすために、新宿の駅近くにあった喫茶店で、高都さんに話を伺った。。原稿には充分生かされているとはいえないが「野田は七色の声を持っているから」とおっしゃったのが、今でも耳に残っている。

 この示唆によって、『小指の思い出』の終幕、野田さんが演じた粕羽聖子のモノローグについて、自在に声の色を使い分ける件りを書くことができた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。