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Adoさん20歳の誕生日翌日のTwitterスペースにて心境を吐露する

 ご無沙汰しております。まともにnoteを書くのは2年半振り。コロナ渦でガラッと環境が変わり、世の中の状況もどうでもよくなるほど心に余裕がありませんでした。そんな中、常に気になる存在であり続けたのがAdoさんです。コロナ渦において神経質な大人たちに青春を奪われ、鬱屈とした日々を送る中、圧倒的な歌唱力で殺気立った楽曲を提供してくれる歌姫に若者たちが虜になるのは必然だったのではないでしょうか。そんな私も何故か彼女の虜です。

 Adoさんは20歳の誕生日の翌日にTwitterスペースを開いていました。私も車で移動中だったこともあり運良くフルで聞くことが出来たわけですが、初っ端から「左足が痒い」とか「風呂上がりに洋服の染み抜きをしていたから配信が予定よりも遅れた」など、フォロワー数「ちいかわ」超えの歌姫とは思えないほど赤裸々に話していました。オールナイトニッポンできっちりと司会進行をこなしていた時と比べるとTPOの差が激しすぎます。ファンにとってはたまらないのかも知れませんが、Twitterスペースとは言え、1万人くらい参加していたわけで、正直大丈夫か?と不安になりました。でもまあこれがZ世代というものか。

 ただ、話の内容はシビアなものでした。Adoさんは極めて婉曲的に言葉を選びながらも「誕生日にプリキュアの主題歌をなぜ配信したのか」について1時間ほどかけて説明していました。飲酒解禁や海外進出の件など、様々な話題を挟みながらの報告でしたが、メインの話はプリキュアの件だったと記憶しています。

 有り体に要約すれば、幼少の頃から大好きだったプリキュアの主題歌をカバーしただけで他意はないのに、極一部のAdoアンチから心無い反応があり心を痛めているとのことでした。(もちろん本人はここまでダイレクトに発言していませんが)

 私のTwitterのTL上には全く流れてきませんでしたが、どうやらこの件で軽く炎上していたようです。調べてみると記事にもなっていました。

 ただ、批判ツイートを行っていたアンチに関してはさしたる感情はありません。それよりも何故Adoさんはアンチに過剰反応を示すのか。そちらの方に興味があります。

 多くのファンも「アンチなんて無視すればいいのに」と思っていることでしょう。それこそ「うっせぇわ」と一蹴すればいいのにと。しかし誤解を恐れずに言えば、Adoさんはファンの「好き」という気持ちよりも、アンチの「嫌い」という気持ちの方が理解できてしまうのだろうと思います。まして今回の場合、アンチとは言え自分と同じプリキュアファンでもあるため、ブロック(拒絶)して終わるのではなく、婉曲的な表現ながらもメッセージを発信したのではないかと推察します。

 これも有名人になると避けられない一種の誹謗中傷問題だとは思うのですが、根も葉もないただの誹謗中傷ならおそらくここまで悩まないでしょう。アンチがそこまで考えているかどうかは別として、「自分が好きなアニソンを嫌いな歌手に歌われたらどう思うか」など、アンチの立場を自分に置き換えて色々と考え込んでいる様に見受けられます。Adoさんは、ラジオなどで「私の一番のアンチは私自身だ」ということをよく仰っていて ──勿論それは自らのアイデンティティーを守るための自衛とも言えるわけですが── アンチに対するメッセージは自分自身に向けているとも言えるのです。

 Adoさんは分断や他罰他責が常態化しているTwitter界における良心と言えるでしょう。アンチを無視したり内容証明を送りつけたりする方々とは異なり、アンチの言動も理解した上で真摯に彼らと向き合っている。アンチに餌を与えているだけだという意見もありますが、この過剰とも言える自責感情こそが類稀なる歌唱力に繋がっているのではないだろうか。延いてはその人柄が彼女の人気を加速度的に高めているのではないかなどと考えています。決して歌だけの人ではない。私は彼女の意思を尊重します。ただ、その分彼女自身が背負うものが大きくなりすぎているのではないかと少し心配になりますが。

 かくいう私も「うっせぇわ」がリリースされた当初は、他罰他責のツイッタラーが具現化されたような楽曲だと感じていましたし、どちらかといえばアンチ寄りでした。そもそも私はJ-POPはほとんど聞かない上に、根っからの陰キャなので、ニコニコやTikTokなどの「踊ってみた」「歌ってみた」系の方々からは無意識的に距離を置いていました。Adoさんのデビュー当時も「ああ、そっち系の人ね」程度の認識だったことを白状します。

 転機が訪れたのは昨年放送されていたタマホームのCMでしょうか。「うっせぇわ」の反体制的なイメージを真面目に追っていたティーンからすれば、商業主義的なキャラの安売りとも受け取れるCMに興醒めしたかも知れませんが、個人的には全力でタマホームのCMソングを熱唱しているAdoさんを拝見して、「ああ、この方はアーティストというよりも職人気質のプロなんだな」と甚く感動したのを覚えています。その後「踊」などの楽曲を聞き込み、その「変態」的な歌唱力に徐々に嵌り続けて今に至ります。

 誤解なきよう申し上げておきますが、我々の業界で「変態」は最上級の褒め言葉です。モーツァルトやM.J.のような唯一無二の存在ということです。マツコ・デラックスも「気持ち悪い」「暗い女」と、"絶賛"していましたが、そういう風に彼女を形容する気持ちはわかります。とにかくいい意味で普通ではない。普通ではないから反発も生じやすいが、一度嵌ると沼落ちするタイプと言えるでしょう。

 つまり私もアンチの気持ちが多少は理解できるAdoファンです。アンチとファンは紙一重だとよく言われますが、Adoさんに関してはグレーゾーンのリスナーが多いのではないでしょうか。私としてはアンチの方々にも「食ってみな飛ぶぞ」と啓蒙したい気持ちではあるのですが、Adoさん自身は「本当に嫌っているのなら私に対して"無"になってください」「せめて(Twitterアカウントの)鍵をかけてください」というメッセージ(意訳)を、スペースの中で婉曲的に発信していました。

 Adoさんは今後も「歌い手」として様々な楽曲のカバーを行っていきたいと思っていても、原曲のファンに不快感を与えてしまうことは不本意なのかもしれません。「嫌なら聞かなければいい」が簡単には通用しないほど有名人になりすぎてしまったこと、何をやっても大手資本がバックについていると色眼鏡で見られてしまうこと、今後「歌い手」として自由にカバーが行えなくなるのではないかという不安など、様々な葛藤を抱えている様子が伝わってきました。

 個人的にはそんな原曲ファンかどうかもわからないような人まで相手にしていたらキリが無いだろうとは思うのですが、それだけ原曲をリスペクトし、原曲を愛するリスナーたちのことを真剣に考えているということなのでしょう。

 当たり前の話ですが、私はアンチの気持ちが理解出来ると言っても、アンチの言動まで肯定しているわけではありません。アンチのツイートの大半は嫌悪感の表出に過ぎず、真っ当な批判にはなっていません。個人の主観に過ぎない嫌悪感の吐露は、殆どのケースに置いて有害無益であるため、基本的には胸のうちに秘めておくべきだと思います。嫌悪感を表出することで一時的にはスッキリするのかも知れませんが、関係者やファンを傷つけてしまった場合の代償が大きいのは当然のこととして、自分自身にとっても「○○が嫌い」という自らの立ち位置が固定化されてしまい、その分選択肢が失われてしまう。文字通り「人生の半分を損する」ことになりかねないのです。

 要は「食わず嫌い」ですが、元々は不寛容で狭量というネガティブなイメージが強かったのが、最近ではSNS上における自らのアイデンティティーを確立するための安易な自己表現として、むしろ肯定的に用いられる傾向さえある。好き嫌いをハッキリ主張するのがエライという風潮に幼児性さえ感じるのですが、その傾向が昨今の息苦しいインターネットを形成しているようにも思えます。好きと嫌い、快と不快のグレーゾーンにこそ"真髄"が隠れているものですけどね。

 Twitterなどでお気持ちを表明する前に、なぜ嫌いなのか?そもそも本当に嫌いなのか?ということを少し掘り下げた方が良いのではないでしょうか。また、どんなに泡沫アカウントだとしても、自身のツイートを関係者が見る可能性があるという想像力も働かせる必要もあるでしょう。

 まあ、私如きが偉そうに説教できる立場にないのですが、Twitterを眺めていると、不確定でフワフワしたものに過ぎない自らのお気持ちを安易に表明する人が多すぎます。そしてそれを過信してしまう人も。私は問題の矮小化と言われようが冷笑と言われようが、そういうツイートを見かけても安易に信用しないよう心がけています。どこの馬の骨かも分からないような人間がスマホをポチポチしただけのツイートよりも、Adoさんのスペースの方が、紛れもない肉声である分よほど心が動かされます。


 また、Adoさんは「インターネットが無ければ世の中の人達がこんなに荒むことは無かったのかもしれない」ということもポツリと仰っていました。ただ、インターネットが無ければボカロ文化とも出会えなかったし、歌手としてここまで成功もしていないという葛藤も抱えている様です。20歳になったばかりなのに、そこらの大人よりも遥かに達観しています。

 この発言はZ世代の気持ちを代弁しているようにも思えました。今更インターネット無しでは生きてはいけないが、他者との接続が過剰で窒息しそうな世の中からの逃避願望。ヴェイパーウェイヴやシティ・ポップ・ムーブメントにも見られるような、不便な時代や非インターネット的なものに対するノスタルジア。Adoの名前の由来になっている狂言も懐古的なものです。彼女のキャラクターにはそういう古き良き時代的なものが内包されている。それ故にラジオとの相性も良かったりする。

 こういう脱インターネット志向が今後どのような広がりを見せるのかは分かりませんが、私にはポストコロナにおける希望を感じます。だからこそこの鬱屈とした時代において、多くの人が彼女の虜になるのではないでしょうか。

 心よりAdoさんを応援しています。

(2022.11.1加筆修正済)


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