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今更ながら『ガキ使』黒塗り騒動について

 6月中盤頃から仕事が非常に忙しく、最近の話題もほとんど追えていません。なので自己紹介も兼ねてこのアカウント作成のきっかけになった騒動のことでもまとめようかなと。

■突如現れた「黒塗り」NG

 このアカウントは2017年の大晦日に放送された『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』において、エディ・マーフィに扮したダウンタウン・浜田雅功の「黒塗りメイク」が、物議を醸していた時に作りました。当時私はSNSのアカウントも一つも持っていないアナクロ人間だったのですが、宮台真司先生のTwitterアカウントはブラウザ上からたまに覗いていました。そのTL上に浜ちゃんの黒塗りに批判的なツイートが大量にRTされていたのですね。

 SNSに免疫の無かった私はリベラル左派がこぞってフェイクニュース紛いの行為を行っていることに軽く驚いたのですが、そもそも宮台先生と言えば、エログロナンセンス上等で表現規制には常に反対の姿勢をとり続けていた学者です。この方でさえPC(Political Correctness)を都合よく利用する人たちには迎合してしまうのかと失望し、──今思うと私は宮台先生にまんまと釣られたのでしょうけど──流石に黙っていられないなと思い、私なりのMeTooのために開設したのがこの長谷川アカウントです。

 RTされたツイートの数々は純粋な黒人差別に対する批判ではなく、差別問題をネタに気に入らない芸人をバッシングしているだけの欺瞞に満ちたものであることは明らかでした。お笑い芸人の黒塗りなんてそれまではTV番組などで普通に行われていたのに、いつの間にそのようなコードが日本においても適用されたのかと。仮に運用されているのが事実だとしても、コードが適用された時期やメディアなどを明確にすることも出来ないくせに、ダウンタウンだけをいきなりバッシングするのは筋が通っていないだろうと。この疑問に答えられる人は結局皆無でしたね。

■2013年放送時にも行われていた「黒塗り」

 さらに突っ込んだ話をすると、この笑ってはいけないシリーズ、2013年放送分の『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時!』はBPO審議対象になっているのですが(尚、2017年放送分は審議対象になっていない)、その時に問題になったシーンは「お尻の穴に白い粉を詰めてオナラとともに顔に吹きかけるシーン」「股間でロケット花火を受け止めるシーン」「赤ちゃんに扮した男性のオムツ換えのシーン」の3つであり、「エマニエル坊やに扮したマツコ・デラックスが黒塗りを行ったシーン」に関しては全く触れられていませんでした。

社会のグローバル化が進む中、幼児からお年寄り、外国人まで多様な視聴者が見る公共性の高い地上波放送においては、課金システムのメディア以上の配慮が必要であることはいうまでもありません。
(2014年4月4日|放送倫理・番組向上機構 より引用)

 上記のようにBPOも「グローバル化に配慮しろ」と述べているのにも関わらずです。つまり2014年の時点では黒塗りNGのコードは日本に存在しなかったということになります。

 そしてこちらが2016年のお正月番組「ドリーム東西ネタ合戦」におけるコント。渡辺直美が黒塗りしているのですが一切炎上していません。2017年においても出川哲朗が「おでんパ組」のPVでMCハマー風の黒塗りをしていましたがこちらもスルーされていました。エディ・マーフィーに扮した浜ちゃんの黒塗りがバッシングされるまで「黒塗りNG」というコードは日本に存在しなかったと見る方が自然でしょう。この騒動が起きるまで「黒塗りがタブー」という話は、日本では海外トリビア程度の認知度だったのです。

■信念無き便乗叩きの横行

 ではなぜ2017年末放送分の「笑ってはいけない」だけがここまで炎上したのか。まずこの番組が日本在住の黒人作家であるベイ・マクニール氏の目に止まったところから話は始まります。

 この方も一般的な在日外国人というよりも、2015年にラッツ&スター「顔を黒く塗って」のパフォーマンスの放映取り下げをフジテレビに訴えたこともある歴とした社会活動家でもあります。その活動内容には多くの疑問はあるものの2020年の東京五輪に向けて日本も国際的な差別問題にはより敏感になる必要があるという主張は理解できなくもない。ただ、この方のツイートだけでここまで騒ぎは大きくならなかったでしょう。通常なら「そう言う見方もあるのか。でもこれ、オリンピックの開会式じゃないから。」と、軽くスルーされて終わりだったと思います。

 日本国内においてもここまで騒ぎが大きくなった原因の一つとして、ダウンタウン(特に松ちゃんの方)が特定の党派性を持つ方々の格好のターゲットになっていたことが挙げられます。便乗で叩いている方々のTLを見ると大半が反安倍系でしたから、2017年末に安倍首相と「ワイドナショー」のメンバーが打ち上げを行ったことが時期的にも大きく影響していたのだろうなと考えられます。この打ち上げ以来(それ以前から?)松ちゃんもすっかりリベラル左派に嫌われてしまい、今でも「ワイドナショー」で持論を展開するたびに炎上するようになっています。地雷を踏んだからというよりも、ボンバーマンのリモートボムを特定の相手から狙い撃ちされているようなものですね。辻希美ブログの炎上と同じで、どんなに些細なことでも揚げ足を取られるネタになってしまうのです。「黒塗り」もその一つに過ぎません。当然こういった話の流れに納得のいかない人は私も含めて大勢いるわけですから、それも相俟って炎上したのだろうなと。

■政治と文化の分離

 あまり政治的な話はしたくないのですが、私もリベラルよりの反安倍な立場ですよ。しかし映画や美術、お笑いなどの「文化・芸術」の領域にまで党派性を持ち込む方々には一切共感できませんね。表現者がどの様な思想信条を持っていたとしても、作品は作品であり表現者の人格とは全くの別物じゃないですか。表現者自身の党派性なんてその時の気分によってコロコロ変わる嗜好に過ぎません。全身全霊をかけて作り上げる作品と比較したら枝葉末節なものに過ぎないのです。好きな作家の好物が自分の嫌いな物だからと言ってその作家自身のことまで嫌いになったりしないのと同じ。ところが『ガキ使』を叩いていた方々は表現者の嗜好性や党派性によって作品の価値まで決定されてしまうようですね。

 私は「笑ってはいけないシリーズ」を年忘れのお祭り感覚で毎年の様に見ています。不謹慎な笑いによって傷つく人がいるとしても、救われる人はその何倍もいることでしょう。私も当時落ち込んでいた事もあって気分的に救われました。こういう日本に根付きつつある貴重なお祭りや大衆文化を一過性に過ぎない党派性如きで破壊しないで頂きたい。くだらない政治なんかよりも文化芸術の方が人々にとって遥かに重要なものです。「誰も傷つかない正しい表現」などという有りもしない綺麗事を放言する「意識の高い」方々は、どうぞNetflixにでも籠もって「うーんポリコレ的に正しいわー」と心ゆくまで好きな番組だけを堪能すればいいじゃないですか。我々のような「下々の民」向けに作られた国内ローカルのバラエティーなんて最初から見なければ良い。その方が世のためです。

■脱思考停止

 長谷川アカウント開設後この騒動をしばらくROMっていた私は『ガキ使』を楽しんでいた何百〜何千万人の日本人を、フェイクニュース紛いの後出しジャンケンで「無知な差別主義者」扱いする選民思想的な出羽守たちに反吐が出る思いでした。こういう方々の方がよほど差別的ですし、現に多くの日本人を傷つけているではないかと。私達は「黒塗り」で笑ったのではなくスタイリッシュなアクセル・フォーリーと浜ちゃんとのギャップの大きさに笑ったんですよ。なので馬鹿にされているのは黒人ではなくむしろ浜ちゃんの方なのです。そういう自己犠牲的な笑いのとり方もどうなんだという批判もあるでしょうけど、少なくとも黒人差別の意図はありません。「差別する意図があろうとなかろうと黒塗りは手続き的にNGにしなくてはならない」が国際常識だとしても、少なくとも日本においては常識化されていなかったわけですから、啓蒙するにしてもやり方があるはずです。気に入らない芸人やそのファンを無知だのレイシストだのとバッシングやマウントの材料にして良いものではありません。

 さらに言えば日本人にはその国際常識を疑う余地すら無いところに人種差別的なものを感じます。日本は差別に鈍感な国などではなく朝田理論などの苦い過去もあって「我々が差別と感じたら差別」という強引な運用に拒絶反応を示す人も多い。日本人には日本人なりの根深い差別や逆差別などの複雑な問題を抱えているわけで、そういう失敗体験を持つ我々からすればPCによる言葉狩りこそ半世紀以上時代遅れの産物です。「(黒塗りが行われるのは)彼らは子供で、わかっていないだけ。」というマクニール氏の発言こそ明確な日本人差別ではないでしょうか。黒人たちが黒塗りを嫌がる気持ちは理解出来るとしても、無条件かつ一方的に差別主義者扱いされてしまう私たちの気持ちはどうなるのでしょうか。黒塗りしていた日本のミュージシャンたちは黒人をリスペクトしていたという事実まで無かったことにしても良いのでしょうか。誤解を誤解のまま放置しても良いのでしょうか。顔に色を塗るという演出が古くから存在する日本の芸能文化はどうなってしまうのでしょうか。

 ブラックミュージックなどの黒人文化を心からリスペクトしている私達からすればPCによる表現規制なんて失うものが大きすぎます。むしろ差別意識が内面化されていないと「はいそうですね」と簡単に割り切れるものではありませんよ。「黒塗り」を安易に排除するのではなく、表現に配慮しつつも相互努力によって「黒塗りそのものはただの表現方法であり差別ではない」という共通認識にアップデートしていくことこそ差別撤廃の目標とすべきなのではないでしょうか。「パブリックな場での黒塗りは止めよう」というPCコードはあくまでグローバル化に伴う過大な摩擦を避けるための手段であり、目的ではないはずです。むしろ各国の文化・芸術の領域に至るまでPCコードを適用してしまうと黒人たちが迫害されてきた歴史や属性について理解を深める機会すら奪ってしまい、本末転倒なことになりかねないのです。「黒人差別をなくす会」が過去に行ってきた黒人表現狩りも、結局何の成果も得られていないではありませんか。だからこそ私はこの件に限らず国際常識だろうが何だろうが思考停止的な表現規制には一貫して反対しているのです。

■When in Rome, do as the Romans do.

 と、古い話を長々と蒸し返してしまいましたが、いずれまとめたいと思っていた案件ですし、昨今のPC案件全てに通じる話でもありますからね。とは言え私もアンチPCというわけではなく、「アメリカズ・ゴット・タレント」に黒塗りした日本の芸人が登場したら流石にまずいと思うだろうし、マクニール氏が仰るように日本人も東京五輪開催に伴い国際常識を身につけていく必要はあるだろうとも思っています。そのぐらいにはこの1年半で成長しましたよ。ただ、それでもグローバルとローカルは切り分けて捉えるべきだと考えていて、視聴率がどれだけ高いとしても「笑ってはいけないシリーズ」はローカルの範疇でしょう。少なくとも海外進出を視野に入れた番組だとは到底思えませんし、国内においても放送倫理ギリギリの範囲で笑いを取る番組なんてことは見る前から分かるでしょう。所詮紅白の裏番組です。なので誤解を恐れずに言えば郷に従うべきはマクニール氏の方なのですよ。彼が行っていることは日本人が海外のポルノサイトにアクセスして無修正であることに憤慨するようなものです。批判するのは自由ですし、東京五輪を心配する気持ちも分かるのですが、『ガキ使』にPCコードを求めるのはお門違いですから。以前書いたnoteでも述べましたが、自由な表現が許されるローカルな文化が存在するからこそ今回のような問題提起や議論も生まれるわけですし、グローバルな文化も発展していくのです。逆にすべての文化をグローバルスタンダードで舗装(均質化)してしまうと、問題の本質を不可視化することになりかねない。

 ただ、ここまで騒ぎが大きくなった以上、もうローカルであろうと日本のTV番組で「黒塗り」は出来ないでしょう。当然オリンピックやパラリンピックでの開会式も然りです。マクニール氏的には結果オーライなのかも知れませんが、これらの規範は「黒人差別は良くない」という内発的動機によるものではなく、あくまで保身による忖度の結果です。差別的表現を無くすことは出来ても日本人の黒人に対する意識には新たな痼が生まれてしまいました。「黒塗り」に限らず今後も日本における黒人関連の表現は腫れ物のように扱われるでしょうし、思考停止的な自警団がますます跋扈する世の中になっていくと思うのですが、個人的には本当にそれでも良いのかなと、モヤモヤした気持ちが残ります。

 そして最後に、こんなことを考えることすらなかった私を、SNSという新たな世界に入り込むきっかけを作ってくれた宮台先生に、感謝の意を表して締めさせていただきます。

おわり

(2019.7.6 加筆・修正済)

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