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メディアとビジネスの境界線は溶けてなくなっていく(#読書メモ MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体)

仕事でメディアについて話す必要ができたので、いい機会なので予習も兼ねて、メディア関連の本に今週何冊か目を通していたんだけど、やっぱりダントツで良いのがこちら。

2012年に書かれた本で、もう7年も経っているけど、とにかくわかりやすいし、これだけ環境が変わっているはずの今、読み返しても全く時代遅れ感ない。それだけ本質的なことが書かれているということなんだと。

メディアに宿る「魔力」を正しく理解し、その影響力をプロとして正しく利用していきたいと願う若いメディア業界人と、メディアが影響力を生むメカニズムを根本から深く理解し、自社のマーケティングや製品・サービスの差別化に役立てたいと願うビジネスパーソンのために、私はこの本を書きました。

メディア業界人のみならず、ビジネスパーソンのためにも書かれている所が、とてもありがたい。メディアをビジネス視点で語ると怒られる感じも少しあったりするので。

メディアの話をするときに便利な、しっくり来る定義

まず、メディアについて話をしようとすると、どうしても「メディアとは?」の定義を問われる。

おそらく、頭の中で想起しているものは、みんなそんなに違わないはずなんだけど、ここは避けて通れなくて。ちゃんと言語化しておかないと議論がしづらい。

特に、メディアについては、いろいろ想いを持たれている方が多く、そのあたりをおざなりにすると、その筋の方に怒られそうだったりしてかなり怖い。(たぶんマクルーハンについて知ってないといけなかったりするはず。)

そんなわけで、議論の対象を揃えられるようなしっくりくる定義をしたい時に、本書の分類や整理は納得感あってとっても助かる。

本質をちゃんとわかっている人ほど、難しい言葉を使わずに、わかりやすく説明できるんだなと思う。

自分の振り返り用に引用しておくと、

まず、語源本来のメディアの定義があって、

何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが語源本来の意味での、メディアの定義となります。

すべてに当てはまる目的があって、

今、様々な形態のメディアがネット上に存在します。しかし、そのどれに対しても「メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、コミュニケーションを成立させることを目的とするものである」という定義が当てはまると思っています。ここで、強調しすぎることのないくらい大事なことは、「メディアは必ず、受け手を必要とする」ということと、コミュニケーションにおいては「受け手こそが王様」であるということです。

絶対的な必要条件として、発信者・受信者・コンテンツが「広義の」メディアを成立させるために必要と示して、

メディアが成立するために絶対に必要なものは、発信者、受信者、そしてコンテンツです。この3要素間の関係性を取り持つものとして、広義のメディアは成立します。

広義のメディアは、発信者・受信者が1なのかNなのかで、3形態に分類されると

そして、現在のデジタルデバイス上に表現される広義のメディアは、発信者と受信者がそれぞれ1つなのか、あるいはN個あるのか、によって、図のような3形態に分類されると私は思っています。

ほとんどのデジタルデバイス上のメディアサービスは、図にある「Media」なのか、「Community」なのか、「Tool」なのか、の三者のうちのどれかを基本に置きながら、この3形態がカクテルのように様々なパターンで、ミックスされたりもしつつ、ユーザーの前に出現します。  

その上で、多くの人が「メディア」と聞いて漠然と思い浮かべるものと、おおむね相違ないものを議論の対象として設定している。

そして本書において主に対象としたいメディアとはこの分類で言うと「想定される送信者:1 vs 想定される受信者:N」というデジタル環境の到来以前からあった最もクラシカルな、最も狭義でのメディア形態を基本的には想定しています。

丁寧に整理できていて、ホントすごいなと。

「N個ある送信者:1×受信者:1」をデータとして管理・制御可能な形になったのが、デジタルシフト

ここは本書にない私見だけども、この定義はメディアのみならず、ビジネス全体がデジタルシフトによって、どういう方向性に進んでいるのか、を考える上でも大きな示唆になっていて。

どの形式でも粒度を細かくすれば最小単位として「N個ある1:1のコミュニケーション」に分解される。これまでは、その膨大な数のコミュニケーションを管理・制御できなかったけど、データ化やアルゴリズム、機械学習などの技術によるデジタルシフトによって、N個ある1:1のコミュニケーションが管理・制御できるようになった、というのが大きな変化。

まあ、ずっと言われていることなのかもしれないけど、メモとして残しておきます。

本書が提示している概念はメディアに対する考察として留めておくべきではなく、ビジネス全体の変化に対する考察として捉えるべきだなあと。

例えば、飲料などのマスプロダクツを製造・販売するメーカーが健康食品などのダイレクト販売事業に参入するケースが増えています。コンビニエンスストアをはじめとする流通店頭では日夜、血で血を洗う様な棚を取るためのバトルが繰り広げられていますが、もしメーカーがダイレクト販売を通じ、住所や年齢、購買履歴などの顧客データを蓄積できたらどうなるでしょうか。メーカーが自前の販売チャネルを作ることもできるわけで、コンビニやスーパーのような巨大な流通企業すら中抜きにされる可能性すらあります。

「コンテンツを分類する3次元マトリックス」の理解

本書の内容を残しておく上で、この3つの軸で整理するフレームも押さえておきたい。

具体的には  
・ストック←→フロー  
・参加性←→権威性  
・リニア←→ノンリニア
の3軸になります。

そして、3つに分けて説明してきた3次元マトリックスで言いますと、「フロー」←→「ストック」、「参加性」←→「権威性」、「リニア」←→「ノンリニア」の3次元において、デジタル化やスマートフォン化、ソーシャル化の進展は、「フロー」←→「ストック」の軸においては、引っ張り合う力が 拮抗 して中立に思えますが、「参加性」と「権威性」の軸では、「参加性」へ。「リニア」←→「ノンリニア」の軸では、「ノンリニア」の方へと、コンテンツのあり方を変えるように「引力」を発揮しつつあると私は見ています。

これも、コンテンツやメディアの話だけではなく、ビジネスそのものが、どっちに引力がかかっているか、という観点でも参考になる視点。

3つの軸の詳細な説明は本書にお任せしますので、ぜひ手にとって読んでみてください。

他にもたくさんある重要な示唆

本書には他にもたくさんの示唆があって、忘れないように引用とメモを残しておきます。完全に自分用。順番も自分の興味順。

ハッタリを事実にしてしまう力がメディアの持つ影響力であり価値

ハッタリと実力の区別が難しい、ということを別の角度から言いますと、メディアやファイナンスという領域は、「予言が自己実現する」世界であるとも言えます。  
結果的には、元々は微妙な感じの会社だったものが、本当に当該領域においてナンバーワンの「いい会社」になってしまうこともあり得ます。こうなってしまえば、事後に、実力とハッタリの境目を第三者が区別することなど、ほぼ不可能です。  
ポンド危機でイングランド銀行を打ち負かしたことで有名な投資家、ジョージ・ソロスは、こういう現象を「再帰性」と言いました。ファンダメンタル(実体あるいは事実)が、価格(価値の数値あるいはメディア上の表象イメージ)に反映されるという因果の矢印は、決して一方通行ではなく、価格(やメディア上で表象されるイメージそのもの)が、逆向きにファンダメンタルや事実の方にフィードバックされることもある、ということなのです。
誤報スレスレのいわゆる飛ばし記事でも、タイミングの妙と、記者自身も予測していなかった関係者の相互作用の中で、結果的に誤報にならずに「世紀の大スクープ」になってしまうこともあり得るのです。つまりは「予言が自己実現する」のです。この「予言の実現能力の高さ」と、いわゆるメディアの信頼性・ブランド力・影響力とは、同じ事象を指すコインの裏表の関係だと私は思っています。

大切なものは目に見えない

メディアの本質的な存在理由は、情報の縮減機能をもたらす「信頼」と、それが生み出す受け手への「影響力」にこそ、あります。「星の王子さま」風に言うならば、「大切なものは目に見えない」のです。  
メディアの仕事というのは、この本に何度も書いたように、「送り手」と「受け手」が存在し、その間に立って当人たちの思いをどのように付加価値を付けつつ伝えるのか? 結局は、それに尽きるからです。

以下も「目に見えない大切なもの」の話をしている

ノンリニアなメディア構造は、全ての記事コンテンツで、即物的に読者の「ウケ」を取れというプレッシャーを作り手にかけます。しかし、そのプレッシャーに過剰に適応して、読者の興味に迎合した記事ばかりを均一に量産してしまうことは、長期的には、読者からのリスペクト獲得の機会を捨てることにつながります。そして、読者から作り手への尊敬・信頼・畏怖の念を欠いたメディアは単なるPV至上主義に陥り、「クリックいくら?」の叩き売りになり、次第にビジネスとしても痩せ細っていきます。  
この悪循環から脱する道は、読者から尊敬されるような、ベタに言えば「ナメられないような」存在に、メディア編集者がなっていくしかありません。「勘違い」や「傲慢」に陥らずに、ギリギリのバランスを取りながら「俺は、私は、こう思う」的な熱き想いを読者に問い、畏怖させつつも、共感させることがその出発点となるでしょう。

目に見えたら、説明できたら、理解できたら、魔法は解けてしまう。わからないからすごい、煙に巻いているようにも見えるので、個人的には苦手な領域だけど、わからないから「知りたい」という人間に備わっている本能。

メディアはメッセージである

冒頭にマクルーハンをあまり良くない形で登場させててしまいましたが、マクルーハンはすごく大事なことを言っているらしく、それは「メディアはメッセージ」であるということ。

そのことについても本書ではわかりやすく説明されていて、結論だけ引用しておくと以下。

配信技術や閲覧デバイスの環境はコンテンツに対し、無色透明なパイプでは決してあり得ません。環境(アーキテクチャ)の変化がユーザーに対し、どのようなベクトルを、無言かつ暗黙のうちに与えるのかについての洞察、このことは今後のメディア編集者にとって決定的に重要なスキルの一つであると私は確信しています。

ドリルの話

他でも読んだことがあるけど、一般的な正解よりも先に行っているのがすごく好き。

ドリルを買いに来たお客さんは、本当は何を求めているのか?  マーケティングの世界に「ドリルを買いに来たお客さんは、何を求めていると思いますか?」という有名な質問があります。「ドリルそのものではなく、ドリルによって空けられる穴を求めている」という答が一般的な正解になります。しかし、この質問は実は大変に奥深く、消費者の立場にたってどこまでも掘り下げることができるものです。  
新聞社の人に同じように、新聞を購読しているお客さんは、何を求めていると思いますか? と聞くと「新聞を読むのが、習慣だから」など、まともな答が返ってこない。ドリルは穴を空けるという利用価値を提供しますが、新聞に対して、購読者はどういった価値が提供されることを期待しているのでしょうか?  
例えば私が、ホームセンターで働いていたとして、夏休みの最終日の夕方、お父さんと息子がドリルを買いに来たら、このお父さんは、息子の夏休みの工作を手伝っているのかもしれない、と想像することも可能です。きっとお父さんは会社人間っぽい雰囲気で、父と息子の溝を埋めることを目的に息子の工作を手伝っているのかもしれません。それなら本当に求めている価値とは、親子の触れ合いの時間や思い出かもしれないから、野球のバットとグローブをドリルと合わせてクロスセル提案できるかも? とまで考えたりすることもできるわけです。

アンバンドリングとリワイヤリング、そして個人メディア

今はアジェンダ設定・解説はソーシャルメディアが、事実の記録・伝達は通信社や一般個人が、配達・代金回収はアップルやアマゾンが、用紙・印刷はスマートフォンや携帯電話がそれぞれの機能別に担当し、「抱き合わせ販売」されていたものが機能別にバラ売りされる、アンバンドリングが進展しています。
徹底的にアンバンドリングが進んだ後には、これまでとは違ったメディア環境が広がり、アンバンドルされたものがまた別の視点からパッケージングされ、リワイヤリングされているのではないでしょうか? その際の主役となるプレーヤーは誰でしょうか? 私の仮説では、それは「個人」です。
個人メルマガに象徴される「ダイレクト感」が疾走する結果として起こっていくであろう、中抜き(ディスインターメディエーション)とアンバンドリングは、インターネットという技術が社会に与えてきた影響のまさしく「本質」に関わる部分でもあります。
なぜならばコンテンツに課金するうえで、決定的に重要なカギとなるのはコンテンツの「品質」それ自体ではなく、コンテンツ制作者が個人として持っている「信頼」と「影響力」だからです。(岡田斗司夫氏は、この「信頼」と「影響力」を合わせて「評価資本」と称しました。)そして、ヨーイドンのスタートでゼロから新規に「信頼」を構築していくとするならば、2012年の現在においては、「個人」のほうが、法人やチーム型のユニット的な組織よりも、むしろ有利なように思えてなりません。個人型メディアの隆盛には、そのことが根底にあるように私は思います。
有限責任でマネーゲームの「駒」でしかないとも言える「株式会社」と、数十年の時間を通じ、一貫した生身の人間がその責任主体となる「個人」。あなたはどちらを「信頼」しますか。これが、個人型メディアが突きつける究極の問いになるでしょう。

個人メディアと企業メディアの関係の話をしているが、デジタル化による、個人と企業の関係性にまで及ぶ深い概念。

行き詰まった時に読み返すとヒントになるような本質がたくさん詰まっている本。

オウンドメディアについて

5年くらい前に、LISKULというオウンドメディアを立ち上げて、たまたま、ちょっと上手く行ったことがあって。そのおかげで、ありがたいことに、いまだにオウンドメディアの成功事例として、登壇したり、インタビュー受けたりすることもあったり。

振り返ってみれば、たまたまラッキーだっただけの「一発屋」で。たしかに立ち上げ当初の2014年は上手く行ってたけど、その後、たくさん失敗しまくっている方は全く光が当たってないので、なんだか全勝してるみたいな感じに見えるけど、現実は1勝9敗みたいな感じ。ほとんど負けてて、ずっと葛藤しております。

端的に言えば、「目に見えない大切なもの」と「稼ぎ儲けること」の矛盾と、「実体を磨き上げること」と「ハッタリが実体に影響を及ぼすこと」の矛盾、このあたりと「スケールに至る時間軸に応じたリスクの取り方」の葛藤。

ストック性の高いコンテンツと相性の良いビジネスはSEOに強いオウンドメディア作れば良い、ということは自明。

現代において、特にウェブ上でストック型のコンテンツを商業メディアとして考える場合、検索エンジン経由で、ユーザーから個別の記事コンテンツをどのように発見してもらうか?(いわゆるSEO〈検索エンジンでの上位表示〉の視点。特にロングテール型ワードでのSEOの視点)は、単純に技術的なレイヤーに留まらず、より編集的な観点、例えばタイトルに入れる見出しの工夫など、あらゆる側面から強調してもしすぎることはないほど重要なことになっています。「ストック型コンテンツではSEOを意識せよ!」これは鉄則です。

それはいまでも変わらない一方で、オウンドメディアも課題はあって、Googleのアルゴリズムの進化によって、起こっていることは、この本でも予見してあって

これは、つまり広告主にとって「自分の言いたいことを、そのまま読者に伝えるだけ」ならば、「オウンドメディアで十分」という時代が到来していることを意味します。  
しかし、「オウンドメディア」には、深刻な構造的欠陥が埋め込まれています。「編集権の独立」が担保されるような仕組みや組織風土が薄弱なところがほとんどではないでしょうか。つまり、オウンドメディアは、魂を欠き牙を抜かれたサラリーマン編集者が、下請けマインドで生ぬるい 提灯記事ばかりを山盛り掲載していく三流メディアになってしまいがちなのです。
なるほど一般読者は、プロのメディア業界人から見たら、そこまで考えずに情報を受け取っているように見えるかもしれませんが、全体集合としての読者は、サラリーマン記者が魂を込めず投げやりに書いた記事や、PR記事ばかりが掲載されているメディアを無意識のうちに見抜き、「しょうもない三流メディア」と脳内で格付けしていくセンサーを、長期間においては、必ず働かせていくと私は確信しています。

全体集合としての読者のニーズは、Googleのアルゴリズムに反映されていくため、アルゴリズムをハックしにいってた、「しょうもない三流メディア」が淘汰されたし、今後も淘汰されていく方向。

近年のオウンドメディアの閉鎖は、「しょうもない三流メディア」とは逆に崇高が故、嫌儲なカルチャーになってしまい稼げない故に、という方向性もあるのかもしれない。

これは、ビジネス全般も同じで、儲けることが第一義になってしまい、顧客の意思決定や市場構造をハックしてるだけの企業が淘汰されていく方向性、ゆえに、その商品・サービスの目的や動機の純度や熱量が問われていく、そういう世の中になっていくと思います。その一方で、動機が崇高が故に嫌儲になり過ぎても続けられない。

LISKULが今もなんとか生き延びているのは、BtoBという土俵でアルゴリズムの進化がBtoCの激戦区よりも遅れている、いうのがラッキー要素に支えられていることが大半なんだけど、

運営しているソウルドアウト自体が、地方中小企業の支援という、動機の純度が崇高で嫌儲になりがちな理念を掲げつつ、儲からないと続けられない、という矛盾に向き合い続けざるを得ない会社だから、っていうのが大きい気がしている。

このあたりはもう少し掘り下げて、発信していきたい。

ともかく、MEDIA MAKERSはおすすめです。昔買ったので若干悔しいけど、KINDLEのアンリミテッドで読めるので入ってる人は気軽に手にとってみてください。

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※今回は、6月30日(日)~7月6日(土)分の週報になります。

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