母の死

風呂上がりの就寝前、家族でよくトランプをした。ゲームは「大富豪」。
私は中学生、兄は高校生だった。

ゲームを続けしばらくすると、革命が起きる。
すると母はいつも「なにこれ」と呆然としたものだった。こんなの聞いてない、と。

最初にルールを説明する時にも革命の発生条件は伝えているし、実際に革命が起こった後で改めて説明してもなお、3が一番強く2が一番弱い、という逆転現象を把握できず、母は間違えたカードを場に出してしまう。父は笑った。私は首を振った。兄は呆れながらも噛んで含めるように伝え、ようやく理解させた。それでも母は不満気だった。急にそんなルールを後出しされても、とむくれた。今思えばあれは、負けず嫌いな母の演技だったのだろう。それは長谷川家にとって、穏やかな時間だった。


職場の控室で電話を受けた時、さすがにその声は動揺していた。「おい、死んだぞ」と兄は言った。それはまるで、何かの都市伝説が真実だったのだ、とでも訴えているかのようだった。そうか。母は死んだのか。満75歳。恵ちゃん、ちょっと早いのではないか。

福岡の、母と同級生だったという人から、留守電が入っていた。「恵子さん、今朝あなたとブドウ狩りに行った夢を見たの。私もあなたも、ちょうど手が届かなくてねえ。そしたら隣から男性がさっと手を伸ばして取ってくれたんだけど、あれはやっぱり等さん(父親)だったのかしら。なんだかあなたのことが気になって、電話しちゃった」

それは母が亡くなる日のことだった。葬儀の間、またこの人から電話が来て、たまたま私が受話器を取った。私が知らない、母のいろんな話を聞いた。私にとってはただの明るくて優しいおばあちゃんだったが、母方の祖母は娘が心配すぎて修学旅行に保護者としてただ一人ついてきたり、電車通学も危険だと言って弘前の進学校への受験を許さなかった。祖父は世界を股にかける船乗りで、帰国する時は、舶来品の珍しいお菓子を持ってきてくれたそうだ。「知ってる? 恵子さんの家に遊びに行けば、珈琲が飲めたのよ」


葬式にはたくさんの人が来た。増席しても足りず、最後には立ち見になった。立ち見の葬式というのを、初めて見た。人望があったのか、異常に社交的だったのか。
兄は泣いていた。兄の号泣を見たのは、私が小学校時代、一緒に『少年時代』という映画を見た時以来だった。
多くの参列者に頭を下げ続けた。一人の紳士が私を見て「小説を書いていますか?」と尋ねてきた。私は「一応がんばっています」と答えた。これまで何度この質問をされただろう。そして、何度同じ答えを繰り返しただろう。そしてこの答えは正しいのだろうか。確かに、私は書いている。ずっと書いているのだ。しかし、本当に「がんばっている」のかどうかは、わからない。

喪中に私の誕生日が過ぎた。46歳だ。長い人生、そういう誕生日もあるだろう。むしろ忘れないのではないか。
東京の職場に戻ると、同僚一同から香典を受け取った。その時、私はやっと呆然とできたのだった。こんなの聞いてない、と。香典が、ではない。母の不在が、である。

死因は誤嚥性肺炎、しかしそれを間接的に引き起こしたのは筋緊張性ジストロフィーである。その病気は、母から私にも遺伝している。だが恐れてはいない。私はこの病気の克服法を学習できる。なぜなら私には、母の頭の良さも遺伝しているのだから。

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