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森の尊さを言語化する達人:柳生博「森と暮らす、森に学ぶ」を読む

私は、柳生博さんにお会いしたことはありません。
2022年の春、85歳で骨太の人生を終えられました。柳生さんが作られた八ヶ岳倶楽部に私が初めて訪れたのは、その年の秋でした。

クイズハンターの司会など、ナイスミドルとして一世を風靡された人なので、私も顔と名前は知っていました。でも、テレビに出ている顔の裏側で、八ヶ岳南麓に拠点を持ち、5,000本以上の広葉樹を移植して森を作り上げ、石組みの炉と枕木を並べたテラスを特徴とするガーデンを多くの人の家で築き、樹木と草花と鳥に精通し、その自然観と人生訓を多くの本に著していたことなど、まるで知らなかったのです。
当時の私と同じように柳生さんのことを知らないという方は、まず以下のリンクをご覧ください。

柳生博との思い出 - 八ヶ岳倶楽部 (yatsugatake-club.com)

この人のことをもっと知りたい。突き動かされるように柳生さんの本を読み始めました。


川の流れのように淀みなく続く名言

最初に読んだ本にしびれました。息を吐くかのごとく楽々と自然に紡ぎだされる文章。その中に埋め込まれた名言の数々。普通、宝石というのは多くの砂利の中に数個しか入っていないものですが、この河原は歩くところ全て宝石です。
そして、YouTubeで柳生さんが過去にお話しされている動画も見て確信しました。この人は達人だ。道を究めたという点でも達人だが、その奥義を人に伝えるという点でも達人。これまでの経験が明晰な論理に基づいて頭の中で完全に整理されていて、どの角度から話を始めても数珠つなぎのように知恵がつながり、聞いている人の心を打つ。

柳生さんの多数の本がどのように作られたのか、それを知る由はないのですが、口述筆記ではないかと推測しています。
文章を推敲すると論理的で分かりやすくなるのですが、流れとか勢いが失われます。しかし、柳生さんの文章は、あまりにも語り口が自然です。いまその場で柳生さんの話を聞いているかのようです。たぶん、柳生さんは本当に誰かに向かってしゃべっていて、その録音テープを起こして本を作成したのでしょう。
その自然な話の中に、柳生さんの経験と知恵が矛盾なく正確に組み込まれます。自分の昔の体験を例示したり、植物の豊富な知識から面白い逸話を持ち出したり、淀みなく話が続いて圧倒的な情報量となります。
例えるなら、日本中の1年間のニュースを全部記憶して、どんな話題になってもアドリブで過去のニュースを正確で流暢に、そして要点を面白おかしく伝えられるニュースキャスターのようなものでしょうか。そんなスーパーマンが実在するわけはないのですが、そうとしか思えないのが柳生さんの本なのです。

次々に、柳生さんの本を読んでいった


最初に読むべき「森と暮らす、森と学ぶ」

柳生さんの言葉は、自然への興味が強くなっていた当時の自分を鼓舞し、私の心を高鳴らせました。
最初に読んだ本を、ここで紹介しましょう。
1994年、柳生さんが57歳の時に出版された「森と暮らす、森と学ぶ」という本です。

13歳の時に、柳生家に代々伝わるしきたりに沿って一人旅をしたのが八ヶ岳であったこと。
俳優の仕事が軌道に乗る中で、褒められておだてられるばかりになった自分を見直すために八ヶ岳に精神生活の拠点を持ったこと。
手に入れた土地にテントを立てて暮らしてみて西日の重要性を認識し、庭とテラスを造って植物を観察し、一番いい場所が湿地だったので水を抜いて小川を作り、そこに小さく立てた家をゆっくりと増築していったこと。
そして、点々と群生地を移動するスミレ、二年目に咲くマツムシソウ、カモシカやヤマネやリスとの付き合い方など、自然と触れ合ってきた様子を順を追って教えてくれます。
実際の文章も、少しだけご紹介しましょう。

優しい話し言葉と鋭い感受性の両立

五月。東京では花見も終わって、新緑の頃です。その時ここでは、木々がいっせいに芽をふくのです。もう、一本、一本、音を立てるように。そして、ワーッて空気が震える。それは本当に鳥膚ものです。特に自分の植えた木なんかだと葉脈を流れる水が、自分の血管みたいに感じることがあったりするのです。

42ページから引用

こういった語り口です。
ワーッって空気が震えるとか、柳生さんが目を細めてうれしそうに語っているのが目に浮かびます。こういう自然な話し言葉の中に、芽吹きを自分の血流に感じるといった鋭い感受性がしっかりと織り込まれています。

こういう優しい語り口調でありながら、森や自然を守るという姿勢は厳格です。

今、山菜採りというのは、一つのゲームになってきています。それは、本当に恐ろしいことであり、なんとも教養のない自然との付き合い方だと思います。
山菜を採るななんてことは、僕は言いません。けれども、今日食べる分だけにしてほしい。隣近所、親戚中に配るような採り方だけはしないでほしいのです。

124ページから引用

山菜を採ることは楽しいですが、節度を守ることが重要です。
それを誰にでも分かりやすく伝える柳生さんの言葉が、「隣近所、親戚中に配るような採り方」です。
確かにそうですね。私も新潟の田舎に行ったときに群生するフキノトウをたくさん取ってしまい、東京に帰ってから近所の人に配ったことを思い出しました。そこには多数のフキノトウが生えていましたし、誰も取りにこないので放置していたらもったいないし、近所の人も喜んでくれたので、悪いことをしたなんて思っていませんでした。
でも、自然の中から自分たちが食べる分だけをお裾分けしてもらう。そういう謙虚な姿勢で付き合うことが大事なんだと気づかされるわけです。フキノトウを乱獲しすぎれば、いずれ無くなってしまうかもしれないですし。それに、私の後から来た人がガッカリして帰った可能性もありますよね。

こんな風に柳生さんのお話しを楽しく聞かせてもらいながら、時々自分の過去の行動の浅はかさにハッと気づかされたり、自分の知らない植物の世界を教えてもらったり、八ヶ岳で多くの人と交流していた様子を追体験できたり、気づけば本を読み終わっていたというような読書体験でした。

八ヶ岳倶楽部という柳生さんからの贈り物

自身と家族のために作った八ヶ岳の拠点ですが、次第に多くの人が集まってくるようになります。
そこで、みんなが集まりやすいようにと作られたのが八ヶ岳倶楽部なのですが、これを作るに至った経緯がまた柳生さんらしいと思います。

正月も餅つき大会をやってきました。その餅つき大会が、年を重ねるごとにどんどん人が増えて、気が付いたら三百人にも膨れあがっていったのです。
(中略)
このままではヤバイ。たくさんの友達に囲まれて、楽しい楽しいってやってるうちに、最も嫌いな”ボス”に僕がなっていて、もっと言えば、僕が知らない人は入ってきちゃダメっていう、そういうイヤな雰囲気が出来てしまっていたのです。
 何か、自分たちが腐り始めていく、そんな思いがピークに達して、虚ろになってきたのが、今から五年前です。それで、パブリックな、開放的なスペースを造ったのです。それが、いまの『八ヶ岳倶楽部』という、ギャラリーとレストランを合体させたお店でした。

43ページから引用

八ヶ岳の最初の拠点を作ったときも、八ヶ岳倶楽部を作ったときも、柳生さんは自分自身に対する批判的な視点を大事にしています。
おだてられてはダメだ、ボスになっていてはダメだ。そういう強い問題意識があったのでしょう。

この考え方は大事なものなんだろうと理解はできるのですが、私自身の感覚としては、しっくりくるものではありません。
柳生さんはテレビが絶大な影響力を持っていた時代のスーパースターであり、多くの人が柳生さん、柳生さんと駆け寄ってきたのでしょう。私自身とはかけ離れた環境なので、実感が湧かないというのが事実です。
でも、私だってこれまでの仕事でやってきたことはありますし、その成果を賞賛してもらったことくらいはあります。自分が天狗になっている気持ちは全くありませんでしたが、もしかしたらほんの少しだけ鼻が高くなっていたかもしれません。
謙虚に考えると、自分の行動を変えるべきところがあるかもしれませんね。

柳生さんが残してくれた八ヶ岳倶楽部は、今も柳生さんの次男ご夫婦を中心として営業を続けています。
私も、もう何回も通いました。柳生さんが育んだ広葉樹の広い森の中を、線路の枕木で形作られた歩道に沿って歩いていくと、「パパの石」があります。パパと呼ばれて愛されていた柳生さんの短い言葉が刻まれています。いつも、そこに手を合わせて、一度も会うことができなかった大先輩に感謝を伝えています。

八ヶ岳倶楽部 (yatsugatake-club.com)

ゴールデンウィークやお盆は大変混雑するので、平日にゆっくりと訪れることがおススメですよ。

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