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しかめっ面で暗闇走る、出版の道

出版社づくりは、行き詰まっている。

印刷であるとか、内容であるとか、そういったことを語る以前に、物流と営業と販促の壁を越えられないのである。調べるほど、いわゆる「ひとり出版社」がぶち当たるのはこの課題で、その解決策がない限りは本を作ろう!と動き出すことができない。

何かこれだという解決策が出る前に、本を刷ってしまってただただ出したけれども売れないということがあっては、やはり協力してくれている人にも面目が立たない。もちろん、これをSNSを使って変えようとしているという人がいるのは分かっているし、そういう仕組みがあるのもわかるけれど。

印刷所は素晴らしいパートナーが見つかったので、僕としてはあまり心配をしていない。そのためのお金もある程度は貯まってきたんだけれども、いざ作るとなると、やはりそのあたりがクリアにならない限りはどうにも動き出せないという気持ちがある。

大きな出版社からすれば、たかだか1000部というのは大した部数ではないのだけれど、個人で全部を抱えようと思うと、これはかなりのリスクが伴うと思わざるを得ない。

いま、僕がホメル社で出そうと思っている本は、僕が好きで好きでしょうがない写真家さんの作品集で、絶対に世の中に出したい、出すべきだ、という気持ちはすごく強くある。それは私財を投じるということへの恐れではなくて、むしろ私財を投じることで何か解決するならやるべきなんだけれども、とにかく先に述べたような内容が、その心配のほとんどである。

秋刊行は難しい気がして、つらい

調べるほどに出版という事業は「継続して本を出す」という機能が必要であり、いわゆる会社として正しいことをすごく求められるという話を見聞きしていて、僕はそれは今は難しいと思ってもいる。

ただ、やらなければいけないというモチベーションだけで、今は向かっている。実際のところ、僕はひとり出版社というものがこれだけたくさんあるのだから、自分も何かいいものを作ればそれなりのラインに乗るだろうという勝手な考えをしていたところがあって、しかしながらひとり出版社の先輩たちの著書であるとか、実情であるとか、苦労であるとか、少しながらでもそういうことを調べる範囲で見聞きすると、やはり本を作ること難しさよりも、本をいかに売るかという問題が非常に大きく横たわっている。

例えば、どこまで時計の針を戻すかは別だが、仮に戦後すぐだとすれば、僕の敬愛する昭和の作家たちが同人誌を作ると、その同人誌がしっかりと売れてしまう。あるいは戦後すぐのエログロが中心のカストリ雑誌というものが、ただそれがあるというだけで売れてしまう。そういう時代に培ってきた方法論のようなものが、今は全くもちろん通じない。

可処分時間における本というものは非常に不利だと言わざるを得ない。そして写真集であればなおさらだ。つまり、価格は高いけれども可処分時間が短いというのが、現状の写真集というコンテンツの置かれた状況だと思っている。ただそれを言い出してしまうと、写真集というものが「効率的でないから」と言って切り捨てられてしまうし、そんな理由で無くなってしまうのははっきり言えば損失でしかない。写真集でしか伝えない思いと、質感と、感情がある。

ちょっとした光明も見えている

ビジネス書のように買う人が見えやすいものであれば、まだ何かやりようがあるような気がするんだけれども、どうしてもやりたいものは写真集。大きな出版社、あるいは写真集を作ってきた出版社でさえ、なかなか及び腰になっているらしい現状にどうにかして売り方という風穴を開けなければいけないのは、ある意味の発明に近い。正直、第一弾で今秋刊行を目指していたところは、現状は難しいと言わざるを得ない。

しかしながら、やりたい。そこで、写真集とは一旦離れてでも、すこし頭の使い方を少し変える必要があると思った。ありがたいアドバイザリーからの言葉で、何かものを出す時にそれがレーベルのように期待がされる、つまり「この出版社であればこういう本が出る」というような期待値を持たせられれば、もしかすると小さな出版社でもその期待値によって刊行物が次から次に手に取ってもらえる機会が増えるかもしれないという話だった。僕はそれに大きく頷く。

分かりやすいところで言えば、例えばSFにおける東京創元社や早川書房もそうかもしれないし、写真集なら赤々舎やリトルモア、太田出版がサブカルにとって愛されるべき存在であることも似ているかもしれない。何かその「出版社らしさ」が見えてくる方がやはり一貫性もあるし、非常にわかりやすくなる。

なるほど、と思いながら、実はそれはそれで少し囚われすぎてしまい、余計に頭がぐるぐるしている。

ただ、部数が少ないということは「何が何でも現代に残す」という観点がひとつ生まれ、それを元にして見えたのが、国立国会図書館のデジタルライブラリーの発掘と、絶版ビジネス本の電子化は方向性としてありそうだ。

編集的観点で現代に電子書籍を残す

やはり僕は今日この現代において、自分が残すべきだと思うものをしっかりと次代に残すということが、実は後から参照できるという意味でも非常に価値があるんじゃないかということを感じた。

そこで考えたのが復刊という作業である。ひとり出版社の常套手段でもあって、思いはそれぞれだけれども、すでに生まれたものをもう一度この世に留めおくということは、誰かが引き継がない限りは案外と糸が切れてしまうものだということも調べているうちにわかってきた。

そこで非常に面白いのが国立国会図書館のデジタルライブラリーである。著作権が切れた刊行物をインターネット公開している、あるいは著作権が切れていなくても著者の承諾を経て公開しているものがある。そのうち著作権が切れていてインターネット公開済みのものは国立国会図書館の許可を得ることなく自由に使用することができる。簡単に言えば、公開されている本を自分で出版したりしてもいいということだ。そして、その中には非常に歴史的に見れば価値のあるようなものもあると、僕には感じられる。

この考え自体を持っている出版社はいくつかあるようだ。検索したら變電社という電子出版社が試みているようだったが、かなり前に公式サイトの更新が止まっていた。もしかしたら難しい状況なのかもしれないが、僕がやりたいのは「この出版社は何を残すのか」という方向付けのためにも、国立国会図書館のデジタルライブラリーからの復刊は非常にあり得るのではないかと思っている。

そしてもう一点やりたいのが、絶版ビジネス書の復刊だ。ビジネス書というのは歴史的に過ぎ行くものに思われるかもしれないが、実はある経営者がバイブルにしている本が絶版ということがよくあるらしい。知り合いの尊敬する経営者が、自分がビジネスを始める時に読み、今でもすごく感銘を受けている本が既に絶版なので中古で見かける度に買っており、必要だと思った人に手渡しているという話を聞いた。

冊数はもとより、例えばそういう人が手渡させるように、あるいはその人が電子書籍を勧めて喜ばれるようなものを作れば、ある一定の売上は見込めるような気がする。そして、もしその会社が世界や日本で非常に大きくなるようなことがあれば、当然その経営者の軌跡を追うことは大事な資産になる。その時に参照すべき本が誰の手にも行かないというのはもったいないことだと思う。

加えて今はビジネスの流れが非常に速くなっていて、テクノロジーの進化も止まらない状態の中でこそ、商売というのは実は根本的なものに立ち返るのではないかという考えもある。たとえば、戦後日本で大企業を作り上げた創業者の声とか理念みたいなものが、実はもう一回見直されるべきなのかもしれないという思いもある。これはとある取材先、それは大手電気メーカーだったけれども、今になって創業者が掲げた理念というものをもう一度ブラッシュアップし、今に蘇らそうとしていた。つまり、それだけ言葉というものの価値があるということだと僕は思う。

しかしその創業者が書いたという本はデジタル化もされておらず、僕も地方の小さな古本屋から、インターネットで取り寄せて全部を読んだ。たしかに全てが現代に通ずるわけではないけれども、その創業者が何を考え、何を大事にしていたのか、どんな言葉を残していたのかを、僕はそれで理解することができた。こういった事例が非常にたくさんあるように思う。

今、自分たちのビジネスはどういった基盤の上に成り立ってきたのか。あるいはどういった言葉の下に理念のもとに培われてきたのかを立ち返る時に、それが参照できないというのは非常に大きな損失なのだと、やはり思う。言葉によって生かされてる仕事に就くからこそ、その言葉がしっかりと各々のスマートフォンであるとか、タブレットに対して、電子版で配布されることは非常に価値が高いのではないかと思うし、そんなことができるのは、実は「売れなくたっていいや」と思っている小さな出版社でしかないと思う。

片手間出版社だっていいじゃないか

出版の仕組みを知るほどに、現状では出版社に対して、新刊偏重にならざるを得ないところがあるらしい。それは取次と契約をしていると、新刊を出せばお金が入るというシステムになっているので、新刊を出し続けるということが彼らにとって会社を維持させるために必要なのだ。

単純に自転車操業なのだけれども、このあたりは「出版 自転車操業」とかで検索してもらえればいくらでも言及しているページが出るはず。

そうなると、やはり売れ線を作るとか、一定規模を追い求めるがあまり、後手にならざるを得ない本もあるだろう。労力をかけた分、しっかり売れなければ、出版社に勤めている人はお金を得ることができない。給料がなくなるようなは、なかなか選べないものだ

しかし、後回しにすればするほど、やはり誰もやらなくなっていき、そのまま文化が消えてしまうというのはあまりにもったいないように思う。そういうものこそ、例えば国立国会図書館とかが動けばいいのかもしれないけれど、現在はそうはいかない。彼らは彼らの仕事があり、なにかしらの思想があるというよりは、日本にとって全ての書籍を残すという大きな仕事があるからだ。

つまり、これは商売になるかならないかが分からないのだけれどもすごく必要だからやる、というある種の同人誌のような活動に近い。その点、僕は今やろうとしていることは人を抱えるわけではなく、ひとり出版社であって、自分の本業であるライターや編集という仕事を辞めるつもりは現状ではないので、はっきり言えばこの本が売れようが売れまいが、とりあえず大丈夫という状態を作っておけばいいという話になる。

もちろん可動時間に対してお金が入らないのは家計的には痛いのだけれど、ただ家計的に痛いという話だけしていると何も進まない。それに誰もやりたがらないだろう。

誰もやりたがらないということは、実は誰かがやれば何か大きな変化が生まれるかもしれない。ビジネスの現場で取材をしてみると、「これって他に競合がいないんですか?」という質問はしばしば聞かれることで、「意外と誰もいないんですよ」と答えられることもよくある。

…と、つらつら話してみたが、実はこの話に対して、僕が本当に作りたい写真集というものが全く合致しないというのが僕の中でのコンフリクトみたいなものがあって、どうすればいいのか本当に分かっていない。

一番作りたいものは僕が大好きでしょうがない写真家の写真集だけれど、この両輪をいかに回すかが非常に困っている。ひとつ、営業を委託するという方法があるので、書籍出版の営業委託をしますよ、という会社のお問い合わせ窓口にメールをしてみるのだが、どうにも皆さん無視されている。

それは僕が会社を立ててもいないし、まだ作ってもいない本に対して話しているせいもあるんだけれど、とにかく困っている。なんとなく貸し倉庫の賃貸ページをぼんやり見ながら、本を置いておくにはいくかかかるのか、という試算をしてみたりする。

しっかり作れば、僕としては絶対に売れるし、欲しがる方はたくさんいると思える写真集になる。ただすごく大事にしてすぎている部分も認めてるけれども、やはりそれは何かしらの方策を持って、僕はその写真家の方に提案したいという思いが強い。ただ打ち手がないばかりで考えすぎてもいるので、一体どうすれば良いかをもっともっと深めなければいけない。それは単純にTwitterのフォロワー数があと1000人増えればいいとかいう話でもない。

たぶん必要なのは僕みたいな思いを持っている人が連合を組んで少しやりやすくするシステムだったり、流通網を持つことだったりするんだと思うが、一体どうしたもんか。出版社に勤めたこともない者がやるには、やはりなかなか難しいのが出版というものだ。でも、勤めたことがないからこそ何かができるんじゃないかという思いもある。

答えはないままだけれど、もし何か示唆をいただけるのであれば、すごくうれしい。また、もがき続ける日に戻る。


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長谷川賢人

86世代のフリーランス編集者/ライター。日本大学芸術学部文芸学科卒。noteでは音声配信も。ラジオのお仕事したい!ウェブメディアを中心に仕事しております。参考事例は → https://hasegawakento.com/

ホメル社の肯定的制作日誌

2019年秋に誕生予定のひとり出版社「ホメル社」の制作日誌です。写真集、ビジネス書、文芸書の刊行を目指します。代表はフリーランス編集者/ライターの長谷川賢人(@hasex)です。
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