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大久保寛司のあり方塾@東京7期 第1回ゲスト 吉田南美さん(後編)

前編はこちらから


何かをやる人は、あきらめることをしない人

(寛司)あきらめることは考えなかった?

(南美)なかったですね(笑)

(寛司)彼女には、あきらめるという思考がない。ここでわかるのは、何かをやる人は、あきらめることをしない人なんだということです。
でもね。何かをやる時に、スムーズにいくことはなくて、いろいろな阻害要因があるわけです。
そこで、「もうだめだ、困った」でなく「えらいことになった、さてどうしよう?」毎回「どうしよう」「これをどうやったら乗り越えられるか」この思考の連続が出来ているんですね。
エジソンもそう。発明までにすごい実験の数をしている。あきらめない。
ずーっとあきらめてない。
そんな南美さんが、ある時、職場に行ったら誰もいないという経験をしたんだよね?

(南美)はい。ただただ一所懸命やってきたんですけど、面白くないと思っていない人がいたんですね。それを村の中で言って回ったんでしょう。ある日、工房に行ったら、もぬけの殻でした。

(寛司)その時の彼女の心境・・・何も見えなかった、って言ってたよね?

(南美)はい、気づいたらお寺にいました。そうしたら小さい子どもが寄ってきて私に「サバーイ?(楽しい?)」と、聞いてきて、ハッと気が付きました。そして、「いつか戻ってきたら、私たちは変わらず門を開けておこう」と、残ってくれた二人のスタッフと決めたんです。最終的には、みんな、戻ってきてくれたんですけどね。

それでも、やり続ける

(寛司)途上国でサポートしている人は、私も何人も知っているけど、時々こういうことがあるんですね。全く客観的にクールに言うとですね、そこに起こるピンチは「それでもやれるかい?」というメッセージに聞こえる。
それでやめるのか、やめないのか。

何かをなす人は、順風満帆にいっている時に「どーん」というのがね、客観的に見ていると、みんなあるんです。事実、そこで終わってしまっている人もいるかもしれない。まあ、少なくとも私が知っている人は、やり続けている人だから「それでもやり続ける」ってことが、今に繋がっているんだね。

これはもう、簡単にできることじゃない。再貧困だったお母さんたちが、自分の給料で子どもたちを学校に行かせてあげている。さらに、文字が書けなかった人たちが、書けるようになる。これは本当にすごいことです。

「ことばの定義」を揃える

(寛司)もうひとつ、印象に残っているエピソードがあって、工房を「きれいにして」と言っても、現地の方々は、四角い部屋を丸く掃く人達で(笑)工房の四隅が、いつも汚れていたと。それで、この時、南美さんが気づいたこと、やったことが、また、素晴らしいんです。

「きれい」の定義を教えていなかったって、気づかれたんですね。
「きれい」ってのは、南美さんや私たちがイメージするのは「四隅にもゴミがない状態」だったんですが、現地の人にとっては、そうじゃなかったと。

この思考回路が素晴らしいんです。これってビジネスにも大事ですよね。「ちゃんとやれ」とか「きちんとやれ」とか「急いでやれ」とか、抽象的な表現は尺度が違うから使っちゃいけないわけです。そこに気づいて、定義を合わせたんです。

その後、現地の方々が掃除当番表を自分たちで作ったのを見て、南美さん、泣き崩れたって言ってましたよね。なぜなら、文字の書けなかった人たちが、自分たちで議論して、自分たちで工房を「きれい」にする表を作った。

(南美)そうですね。クメール語が書けるようになるのには3か月から長い人では1年半はかかります。その人たちが、当番表を自分で書いて作ったんです。

(寛司)そういえば、南美さん自身のクメール語のマスターの仕方も面白いよね?

(南美)ええっと、お金がなかったので、通訳は雇えないし、先生にも教えてもらえないし、日常の何かと掛け合わすしかないなぁと思って、それなら「食べること」がいい!と、毎朝、安く食事が出来て一番おしゃべりなおばちゃんの店に通って、話し続けました。
最初はまったくわからなかったけど、わからないなりにカタカナで書き留めて、それを、友達になった日本語通訳の方に教えてもらってメモして単語帳を作って、片道2時間半のバイクの時間で覚えました。

(寛司)ちなみに、お子さんが最初に覚えたことばは?

(南美)クメール語で「オークン」日本語の「ありがとう」です。

今ダメだからといって、ダメだと思わなくていい

(寛司)いろいろお話してきましたが、南美さんがどんな子どもだったか、中学時代の話をしてもらっても?

(南美)はい、あの…中学時代は普通じゃない「クラブ」活動…に熱心で、夜、家を抜け出して、都市部に出て朝まで踊るクラブ活動ですけどね。ヒップホップに夢中で朝方まで遊んで、学校に行かなくなりました。

「行けない」のではなく「行かないんだ」なんて言って(笑)、中2で家出して、地域に捜索願が出されたこともありました。
携帯電話だけは、家族と繋がっていたんですけどね。当時のことで覚えているのは、ある日、父親がメールで「○○のコンビニに来い」と連絡してきて、何となく行ってみたら、父の車が停まっていて、近づいてみると車の窓から封筒が降ってきて「これで美味しいものでも食べに行け」って、封筒の中に3万円が入っていたことがあって。

これはもう、帰らなくちゃまずいかなと思って…それで自宅で父に「なぜあんなことを?」ときいたら「お前はお父ちゃんの子だから、社会ではなく、それが南美にとっていいか悪いかは判断できるはず。だから気が済むまでやってこい」って言うんです。父とは何となく、気が合ったんですよね。

まあ、その後も家出して、また見つかって怒られたりしてましたけど…

(寛司)中学校の先生とのエピソードも面白いですよね?

(南美)ええ。この活動を始めてからのことですが、地元の駅で電車を待っていたら、中学校時代の養護教員とばったり出くわしたんです。そこで声を掛けたら「かとうみなみ!」と叫んで、とっても驚かれて…
「その節はお世話になりました。実は私・・」とカンボジア支援の話をしたら、先生が泣き崩れてしまったんです。

(寛司)南美さんは、先生にとって歴史に残る「三悪」(笑)だったそうでその彼女が、今、そうした活動をしていると知って泣いたんだよね。

これも、私の価値観を変えました。色々な場所で「うちの子はどうしようもない」と相談されても「いやいや、化けるかもしれないよ」と言えるし「学校に行かないんです」と言われると「センスあるんじゃない」と、心からそう思っちゃう。
ちなみに彼女のような活動をしている人を何人も知っているけど、本当に色々な人がいる。何が言いたいかって言うと、色々なパターンがあるということ。今、ダメだからと言って、ダメだと思う必要ないんです
いつ人は、どう化けるかわからないってのが、私が今、感じていること。

そして、そんな南美さんが母親になって、この間、長いメールを送ってきたんです。子どもを産み育てて、新たに気づいたこと、教えてもらっても?

子どもを授かって気づいた、本当に大事なこと

(南美)はい、私が母親支援をやり始めたのは23歳の頃でした。今は33歳になり私自身も母親になったことで、いかに私が、母親の気持ちを理解していなかったのかがわかったんです。

実は、私たちの工房は、エリアの中で産休・育休が唯一ある「制度」の整った工房で、私はそれが誇らしかったんです。元々再貧困の女性たちが、2021年に村の平均月収を超えたことも自信でした。
でも母親になってわかったのは、スタッフたちがほしかったのは、制度じゃなかったってこと。妊娠中のお母さんに必要なのは「声かけ」だったし、子どもが熱を出したときに必要なのも、休んだ後に出てきた際の声掛けだったってこと。

「声かけ」ってゼロ円で出来るんですよ。しかも大体5秒以内で出来る。
なのに私、なぜそのことに、気づけなかったんだろう、と。

私に足りていなかったのは「想像力」や「発想力」。相手の気持ちに自分の心を置き換えて、なぜ感じられなかったんだろう?どこかで、予算がないから潤沢な運営が出来ないことを言い訳をしていたんですね。

でも「声かけ」に掛かるお金はゼロ円です。そのことに、母親になって、自分が温かい言葉をかけられて初めて気づいたんです。

(寛司)企業でも「制度」があることは大事。だけど、制度・仕組みはあっても、どういう「声かけ」が出来るか、そっちの方が大事。
団塊の世代は、専業主婦が当たり前で、妻が働くことは恥という時代で…
そういう時に、働いていることに甘えて、子育てしている妻に優しいことばをかけなかった人が何と多かったか…あ、これは、自分に言ってますけれど。
要は手伝ってほしいことより何より、思いやりのある一言の方が嬉しいということ。手伝うことも、もちろん悪い事じゃない。だけど「ありがとう」と言うこと、思いやることが何より大事なんです。

人は理解された時に変わる。わかってもらえた時に嬉しい。だから、わかること、思いやりを持つ側になるってこと。それは、私の定義で言う「大人になる」「成長する」ということでもある。思いやる側の方が、人として成長するのではないかと思います。そして、そういう領域をいかに広げていくかってことが大事なんだと思う。

輝き続ける理由

(寛司)カンボジアで、南美さんに出迎えてもらった時、彼女がとても輝いていた。一緒に行ったみんなも同じことを言ったんです。「人って輝くんだな」と。

帰りのマイクロバスで南美さんに挨拶してもらった時のことを、今でも鮮明に覚えています。彼女はこう言ったんです。
「私はカンボジアから沢山プレゼントをもらってばかりだから、残りの人生をカンボジアに捧げる」と言った。
「『もらってばかり』ってどういうこと?」と聞いたら「豊かにしてもらっている、だからカンボジアに捧げる」と。

なるほどなぁと思ったのは、沢山してもらったのに、まだ足らないっていう人と、やり続けているのに逆に沢山いただいているという、この発想の違い。何とも言えない感銘に包まれたんです。

限られた時間で、全容はすべては話せなかったけど、彼女から学んだことは沢山あって、本当に大変なことを乗り越えてこられた。
初めてカンボジアに来て、彼女が村を支援したいと思った時のことも、最後にお話ししましょう。彼女はコピーを1枚したかったのに、一日中町を歩いても出来なかったんだそうです。そんなコピー1枚もとれなかった日から、沢山の人脈をつくり、信頼という資産を積み上げ、今では国からも認められる存在になった。
そんな彼女でも、ここまでやっていても「自分は何をしてきたんだろう」と反省している。自分に対して厳しく見ている。自分を客観視している。その感覚を持てることがまた、素晴らしいと思っている。

これからまだまだドラマは続くと思う。ご縁があった方はご縁を活かして、支援するもよし、メッセージを寄せるもよし、カンボジアに行くもよし。何か思う所があったらと思います。


おまけ〜インターンの小池さんに直撃〜

この日は、南美さんの会社「NATURALVALUE」でインターンをしている、現役大学生の小池はなえさんも、会場に来ていて…寛司さんの直撃を受けました

(寛司)いつから、どうして、インターンを?

(小池)今年(2024年)2月からです。きっかけは、友人が先にインターンに入っていて、その話が楽しくて、興味を持ちました。いい形の社会貢献だと思ったし、海外のインフラにも興味があったので、現地を自分の目で見て見たいと思いました。
カンボジアには、2月18日から約2週間行ってきました。急なことで両親はびっくりしていましたが、なぜカンボジア?と聞かれたので、自分の想いをプレゼンして、結果的には、応援してもらえました。

(寛司)行ってみてどうでしたか?

(小池)日本とは違う非日常の体験ができました。電気・ガス・水道のない村で1泊しましたが「すごく楽しい」という思いと「本当に自分がここで貢献できるか?」など、色々な側面から自分のことをかんがえるきっかけになりました。

(寛司)食事は大丈夫だった?

(小池)はい。ごはんも美味しくて、食べ過ぎてしまった。村人と一緒のものを食べたり飲んだりしました。
村の大自然の中でカエルを取りに行って、素揚げにして子どもたちと食べたりもしました。

(寛司)一番印象に残ったのは?

(小池)一緒に行った大人たちが、どんどん大人たちが変わっていく様子を見て、涙を流している姿を見て「ああ、大人って楽しそうに生きていいんだ」と思ったことです。変わったのか元からそうなのかはわかりませんが、私の中で、大人って企業でお金のためにバリバリ働くイメージがあったんですけど、それだけじゃなくて、自分の幸せを見つめ直したり、話し合う様子に、大人もそういうことを感じているんだなぁと思って、感動しました。

(寛司)変わったわけじゃない。そういう違う側面が出てきたということ。人は、そういう側面を元々持っている。ただ、日常ではそうじゃない面が強く出ていただけなんじゃないかな。出す側面が変わっただけのこと。それが「変わった」と言われているんだね。

【あり方塾 2024年3月28日開催リポート】

【大久保寛司さん】
1973年に日本IBM入社。業務改革推進本部を経てCS担当となる。
顧客重視の経営革新、企業の体質改善と仕組みづくり、
社員の意識改革などに尽力し、会社の風土改革、体質改善に奔走してきた。
お客様満足度向上委員会の事務局長としても活躍。
2000年の退職後は「人と経営研究所」を設立、
所長として“人と経営のあるべき姿”を探求している。
全国から指導・講演依頼が殺到しており、企業はもとより、
医療機関、自治体、教育関連団体からの要請も多い。
相手の立場を大切にする分かりやすい説明には定評があり、
特に気付きを引き出す合宿研修は「参加者の意識が大きく変わる」と絶賛されている。
2024年4月には、日本IBM時代のエピソードをもとにした小説「会社は変わる」(園田ばく著 エッセンシャル出版)をプロデュース。


「あり方塾」
多くの学びが焦点を当てる「やり方」ではなく、自らの「あり方」をみつめ、整えることを大事にする学び場。企業風土改革の第一人者である大久保寛司さんから「あり方」を学び、ともに考える勉強会で、隔月1回の開催(リアル&オンライン)が基本で、開催翌月にZOOMによる復習会もあり。


文責)あり方塾塾生:橋本恵子


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