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孫を怒る、母。

里帰りをすると、いつも今の自分と比べて偉大すぎる父母の優しさと、厳しさと、それでもどうしようもなく年は取っていくんだなあ、という実感で、すごく切なくなる。冬の長野県の夜は長く、寒く、また背筋がのびるほどにぴんと張り詰めているんだけど、そんな長野の夜が辛く感じるのは、寒さのせいだからだ、と思いこめるほど、もう私は若くないのだ。

夫が一緒に帰省してくれたから、少し楽だったけども、それでもやっぱり離れるのは切なくて。

いつもちゃんと生きよう、と思いながら実家を後にするのだけど、東京の自分の家に帰ってくると、それすらもなかったかのように日常に戻ってしまう。東京は暖かい。暖かくて、生ぬるい。

母は相変わらず厳しかった。優しさゆえの厳しさだけども、まあ言うことなすことみんな厳しい。もうお腹いっぱい、っていうくらい、厳しい。

私だけじゃなくて、私の3歳になる姪っ子、母にとっては孫、おそらくはかわいくて仕方ないはずの孫ですら、怒るときは大人とおなじように怒る。

お母さん、きついなあ…そう思っていたら、夫が、

「お義母さん、すごいよな。あんなふうにちゃんと怒ってくれる大人、いないんだよ。みんな子供だからって、幼児言葉でごまかすじゃん。」

と言っていた。そう言われるまで気が付かなかった。

幼児言葉でごまかさないで、ちゃんと怒る。なぜ、それをしてはいけないか、目を見て、感情に任せるのではなくて怒る。たしかに私はそれをできないでいた。どうしても子供だから…でごまかしてしまっていた。

母は私が子供のときも、ごまかさないでくれていた。

初めて性の話をしたときも、あたなにはまだ早い、ってことは言わなかったし、子供にはいいにくいだろうな、っていうトピックスでも、ちゃんと説明してきた。いずれわかるよ、とか、そうやってごまかされたことはなくて。

母の厳しさは、ごまかさないからなのだろう。そして、私がそれを厳しすぎる、と感じるのは、まだまだごまかしがあるからゆえの甘さからくるのだろう。

優しい人でありたいと思う。優しい世界を作って行きたいと思う。

でも、優しい世界、美しい世界を作っていくには、厳しい人が必要なんだと思う。なんともならないくらいに、平等でなくて、まだまだ悲劇は多くて、救いがなくて、でも美しいこの世界。

この世界を生きていくための、ごまかさない厳しさと、強さが、まだまだ私には足りないみたいだ。

冬の山はいつも厳しくて。

でもその厳しさに触れたくて、毎年私はやっぱり山を見に行ってしまう。

あの山の気高さが、少しでもいいから、私に触れてくれますようにと願って。

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