物書きって、誰だ。

”物書き”という言葉が使われるようになったのは、つい最近のことのように思われる。

現在30代の私が子供だった頃、1990年代初頭には、作家、という言葉の示すところと、ライターやコラムニスト、ジャーナリストのそれの間には、明確な意味の差が存在していた、と記憶している。今、”物書き”という言葉は、書くことを生業とする全ての人を指す包括的なもので、自分のことを物書きである、といって紹介するには、雑記でも、小説でも、コラムでも、とにかく何でもいいから文章を書いていることが、また書いていることだけが条件となっているようだ。ある言葉のカバーする範囲が拡大するということは、その言葉の意味するところが、ほんの少し、ほんの少しだけれども、万人に通じるような明確さを失うことであろう。だとしたら、私は自問せずにはいられない –

物書きとは、一体誰を指すのだろう、と。

何事にも皮肉な目線を忘れず、笑ってはいけない場面にあっても何かしら笑いを求めてしまう私が、真面目に考えてみた。

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水村美笛は、名著『日本語が亡びるとき』の中で、繰り返し繰り返し日本文化の真髄は日本語、それも書き言葉としての日本語にあり、我々の文化を形作るのは、<読まれるべき言葉>つまり書き言葉である、と提唱する。日本を日本たらしめるものは、定義の曖昧な”日本人”そのものではなく、いわんや景色、風土なんかではない。書き言葉こそが我々の今日思う日本語を、日本精神を形成しているもので、もし書き言葉が衰退するとすれば、それは日本語、ひいては日本文化そのものの衰退を意味する、と述べた。

私の上記の物書きとは誰だ?という問いに対しても、この日本文化=書き言葉という等式を考えることなしに、答えを出すことはできないので、引用をさせて頂いた。

物書き、というのは必然的に、書き言葉 – 話し言葉の単純な”書き起こし”ではなく – に、こだわる人、こだわらずにはいられな人のことを指すのだと思う

ツイッターや、テキストメッセージ文化の隆盛によってもたらされたものは、話し言葉と書き言葉の等価交換だ。本来、話し言葉というものは庶民を含め、その文化に参画する人間すべてに、否、人類すべてに平等に約束された基本的な権利である。人間社会に生まれていれば、話すことができない(力量の差はあるにせよ)という人間はいないが、その言語でものを書くことができない、という事例は前近代では多く見られた。現代でも、ツイッターは読めても、谷崎潤一郎は読めない、読まない、という人はいくらでもいるはず。ラノベは読めても、カラマーゾフの兄弟はどうも読めない、という人もいくらでもいる。

それは、本来書き言葉というのは話し言葉の単純な書き起こしではなかったからなのだ。女子高生がおはよう、と登校中友人を見かけて声をかける。そして、別の高校に通う彼に、おはよーとLINEでメッセージを送る。このときのタイプされる”おはよー”は書き言葉ではなく、彼女の話し言葉の”おはよう”の等価交換された形にすぎない。

だからといって、私は話し言葉の書き起こしが、本質的に書き言葉に劣っている、ということが言いたいのではない。何かが何かに劣っている、というときには、そもそも同じグラウンドで勝負をしているべきで、本質的に違うもの同士が対峙している場合は、優劣をつけることはそもそもできない。

本題に戻る。

物書きとは、文章を書くときに、読まれることを前提として、その言葉に書き言葉として魂を入れることにこだわらずにはいられない人のことを指すのだと思う。

サラリーマンが会社でメールを書くときに、受取人にどう聞こえるか、日本語としての構成はどうか、字面は整っているか、言いたいことは伝わっているか、そういうことにこだわらずにはいられない人は、物書きなのだ。

人間が生きて行く中での心の機微を綴ったり、また文章によって情景を表したり、感情を喚起したり、文章そのものの美しさにこだわる作家ももちろん物書きだ。

恋人とロマンチックなチャット交換日記をしていても、相手の文法が気になってしょうがない男子中学生だって(果たしているのだろうか)物書きだ。

書き言葉は、残る。Snapchatではあるまいし、書いた瞬間に消えるのでは、書き言葉としての役割を果たさない。私たちの生きている、または生きてきた軌跡を残すため、私たちは物を書く。そして、その書き言葉に異常なまでの執着をみせるのが、我ら物書き、なのではないだろうか。


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