ヘーゲル大人のなり方

未来に「あるべき自分」を思い描く者にとって、現在の自分は欠如にすぎない。--人間の学校化について[2]--『脱学校的人間』第六章

歌のフレーズにあるように、もし本当に「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」のだとしたら、それはむしろ明らかに不幸なことであろうし、しかもこの不幸は、彼の死をもってでなければ終わらないようなものであろう。もし本当に「生きている限りは勝ち続けていなければならない」のだとしたら。
 「生きている限りは勝ち続けていなければならない彼」は、「この勝ちを確保すること」よりもまず、「さらにその先の勝ちを

もっとみる

誰も降りることができない、社会という生存ゲーム。--人間の学校化について[1]--『脱学校的人間』第六章

社会生活におけるさまざまな人々との関係の中で、「…私たちは、ある種のゲームにいやおうなしに参加させられる…」(※1)のだ、と西研は言っている。そして、そこで「…問題となるのは、私たちが「やりたいからやる」というかたちでゲームに参加するとはかぎらない、ということだ…」(※2)とも言う。
 ではなぜ「このゲーム」は、「やりたいからやる」というかたちで自由に参加できるようなものではなく、「やらなければな

もっとみる

人の役に立っていると認められなければ、誰も社会のメンバーになることはできない。--労働の学校化について[4]--『脱学校的人間』第五章

個人が仕事=労働を通じてその社会的な有用性が認められ、同時に社会=共同体の成員としてその存在が承認されるのは、「子ども時代に家の仕事に加わることから始まっている」と内田樹は言っている。
「…昔の子どもたち、つまり、労働主体として出発した子どもたちにとって、学校における「勉強」と、家事「労働」は(いずれも英語で言えばworkということになりますが)同一のものとして観念されていました。一生懸命「ワーク

もっとみる