棒馬

路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』8

泳ぐための施設、生活するための建築物はスケートボードのために使われた。スケートボードの文化的影響が勝ったため、波とプール、プールと建築物の境界がまたがれたのだ。

さて、ゴンブリッチが

棒が馬としての役を演ずることができたわけである。そうであるとすれば、われわれは普通には閉じて封鎖されていると見なされている境界を越えることもできよう。
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源につ

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』7

サーファーは海の存在しない都市で、スケートボードでサーフィンの様相を模倣し都市にサーフィンの概念を持ち込んだ。その結果泳ぐ施設であるプールを抽象化し波の代替物として認めることができたわけだが、それは泳ぐための施設という与えられた意味を読み込む社会一般的な概念よりもサーフィンの概念が重要だったからであり、サーフィンという文化的影響が勝った結果である。

いっさい馬のかたちと類似性を持っていない、ただ

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』6

文化的影響におおわれているということはその文化に沿った仕方でものと関わっているということだが、それはどのようなものだろうか。

記号論学者のエーコは、文化が生じたといえるのは次のような場合であると定義している。

(i)考える生物が石の新しい機能(それを直接使うか、火打石として変えて用いるかなどということは関係ない)を確認する、
(ii)石について「あることに役立つ石」というような言い方をする(そ

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』5

棒を馬とみる子供の視点には騎士道という背景があった。同じように、スケートボードを持ったサーファーのRを波と見る視点の背景にはサーフィンがあった。そのような都市で波を求めるサーファーの行為は、海で波乗りをするという様相の模倣であった。

住宅街の中にある、地面を掘ってつくられた屋外のプールを見たとき誰が波を連想することができるだろうか。プールとは泳ぐ施設であり、水を蓄えている姿こそがプールの本来ある

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』4

棒馬とは、子供が棒を馬に見立てたいわゆるごっこ遊びだ。

目に見える形として棒という姿であらわれているものが子供の抽象の力により馬になった。同じようにサーファーもプールという施設を抽象化した結果、波と把握しそこでスケートボードをした。

そもそも一本の棒が馬になるためには、その形が馬乗りできるものであるとともに、乗ること自体が重要でなければならない。そこには封建時代における騎士道と馬の結びつきにま

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』3

棒馬とは、子供が棒を馬に見立てたいわゆるごっこ遊びだ。

「最初の」棒馬にはおそらく像といえるようなものは全くなかったろう。ただの棒が馬と言われたのはそれに乗ることができたからだった。比較項は形よりも機能の方だった。
引用:E.H.ゴンブリッチ『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』P14

ゴンブリッチはある物を何かの代替物として使う際、機能を比較項としているものの例として二つを挙げ次のよ

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』2

なぜプールは発見されたのか。プールを発見した行為と同じである「棒馬」とはいったい何なのか。なぜ波とは似ていないプールを波と感じることができ、馬とは似ていない棒を馬としてみることができたのか。ふたつの視点に共通するものとはなんなのだろうか。

「棒馬」とは、子供が棒を馬に見立てたいわゆるごっこ遊びで、馬に乗ったつもりになって一本の棒で遊ぶのだ。

棒馬の例として、美術史家のゴンブリッチは15世紀末に

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路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』1

1970年代のカリフォルニアでは、バンクは街中を歩いていて日常いつでも目にするものではないが、まったく見かけることのないレアな存在というわけでもない。そのようなことを考えると、バンクは探さなければ見つけることができないものというより、街中を滑っているときに偶然発見できるある程度生活の中に溶け込んだものだ。また、公共の場所にあるので気が向いたときに試しに滑ることもできた。対してプールは道路の延長では

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