正保城絵図

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(1)江戸時代前期

# 第4章 史料文献調査
防衛策として街路屈曲説が現れるのは江戸時代中期から

## 4.1. 文献調査の必要性について

仮に、
「大名は防衛のため城下を迷路化させた」
というのが真実で、全国的にどの大名も実践した定番の手法であるならば、その証拠は当然に当時の文献に見いだせなければなりません。

「いや、それは軍事上の秘伝だから、おいそれと文書に記されるわけはない」
と、あなたは反論するでしょう

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(9)集計結果

## 3.5. 集計結果と地図調査の結論――城下町と非城下町に極端な差はない。そして、やや城下町の方が道が良い。

### 3.5.1. 集計結果一覧

城下町の集計結果を表 3.5.1と表 3.5.2に、非城下町の集計結果を表 3.5.3と表 3.5.4に示します。

表 3.5.1: 城下町集計結果(1)

表 3.5.2: 城下町集計結果(2)

表 3.5.3: 非城下町集計結果(1)

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(8)九州編

### 3.4.7. ■九州編

#### 3.4.7.1. 小倉城(福岡県)

図 3.4.7.1: 小倉城

こんなん笑うわ。卑怯!これは卑怯!
「大名が防衛のために城下を複雑化させたって本当?」
と調べてる人間に、小倉城の東半分を突きつけるのは卑怯と言うほかないでしょう。笑うしかないじゃないですか。

一方で西半分、主郭の存在するエリアはどうでしょう?

上級武士の侍屋敷は二の丸にあります。

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(7)四国編

### 3.4.6. ■四国編

#### 3.4.6.1. 丸亀城(香川県)

図 3.4.6.1: 丸亀城

見ての通り、はっきりと方格設計が存在しています。

十字路の割合も、交差点総数が50~100の城下としては高い比率です。目抜き通りが南北に貫き、おおむね左右対称である都市設計は、中国大陸から伝わった都城制のフォーマットに沿っています。

北側の大手門の前に枡形のような広い空間が設けられ

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(6)山陽・山陰編

###3.4.5. 山陽山陰編

####3.4.5.1. 津山城(岡山県)

図 3.4.5.1: 津山城

おおむね、方格設計が見られますが、河川に近いエリアでは平行・直角の崩れが見られます。河川地形の影響と考えられます。

さらに、城の西側では正方形に近い地割なのに、北西・南・南東と南西の端のあたりでは短冊形の地割となっています。都市計画の不統一感、はなはだしーい!

注目せざるをえないのは

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(4)中部編

### 3.4.3. 中部編

#### 3.4.3.1. 村上城(新潟県)

図3.4.3.1.: 村上城

若干の乱れはありますが、なんとか平行と直角を守ろうと努力しており、方格設計による都市設計の意思は感じられます。

豊田武氏の『日本の封建都市』では村上城下を放射状街路に分類しています。しかし、この街路を放射状に分類するのは正直、違和感しかありません。

#### 3.4.3.2. 保内村

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(3)関東編

### 3.4.2. 関東編

■烏山城
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■沼田城
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■笠間城
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

#### 3.4.2.1.

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(2)東北編

## 3.3. 第一印象

交差点の定義は終わりました。では、いよいよ地図調査の結果を見ていきましょう。
「全選手入場ッ!!!!」
■城下町

■非城下町

赤点が十字路、青点が三差路、(サムネイルサイズではわかりにくいですが)紫の点が複雑交差点です。
パッと見、城下町は碁盤目状で非城下町はナチュラルに見えます。
とはいえ、このサイズでは印象しかわからないので、とっとと各地点の検証に進みましょう

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