町割

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(8)昭和時代

### 4.5.7. 土木学会 『明治以前日本土木史』(1936年版)

  引用元:土木学会『明治以前日本土木史(1936年版)』
  ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

昭和11年刊行。むだ話はせず、とっとと引用しましょう。

城下町に採用せる都市計画は、上代の難波京を始め平城京・平安京と同じく碁盤型街路に依り、放射型街路は殆んど見当らず。唯僅に宇和島城下に於いて放射型採用の例を

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(6)大類伸『城郭之研究』(1915年)

### 4.5.5. 大類伸『城郭之研究』(1915年)

  城郭之研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953295
  ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

再び、大類伸氏の著作です。いま読んでも、これが名著であることは疑いようもありません。まさに城郭研究界の鉄腕アトム(自分にとってわかりやすいたと

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(5)江戸時代後期~明治

4.5. 江戸時代後期~昭和
――誤解と空想の防衛術が定説へ……

ここからは江戸時代後期(1790~)の文献と明治末から昭和の文献を見て行きます。

ん?明治末?い……維新の頃は……?

そうなのです。明治維新では日本の城が無用の長物として疎んじられました。

それと同様に日本の伝統兵法と和城の築城術は、学問の世界でも超不人気ジャンル化したようなのです。この時期の和流兵法・和流築城術の文献の少な

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(4)それは盛岡砂子から始まった

## 4.4. それは『盛岡砂子』から始まった
――街路屈曲防衛術の論拠は江戸時代中期の巷説

### 4.4.1. 一次ソースの名は『盛岡砂子』

さて!さて!さてさてさて!やってきました桶狭間。ここが勝負の天王山。心しずめて賤ケ岳。天下分け目の関ケ原。ついに本丸天守閣。

天守閣って言い方は明治以降だ?うるせえやい、七五調にしたかったんじゃい。細けぇこたァいいんだよっ!

いよいよ、街路屈曲防

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(3)江戸時代中期

## 4.3. 江戸時代中期(1690年~1779年) ついに出現する、防衛のための居住区街路屈曲という概念

ほとんどの都市で基本的な町割が終わってしまっている時代です。

すでに松坂古謡で見た通り、この時代に、ついに
「(城地ではない)居住区の街路を屈曲させて防衛用途とする」
という概念が出現します。

ともあれ、時系列順に文献を追っていきましょう。

### 4.3.1. 長沼流兵法:『兵要

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(2)蒲生氏郷は町割下手ではなかった

## 4.3. 汚名返上!蒲生氏郷は町割下手ではなかった

### 4.3.1. 蒲生氏郷は町割下手だった?

さて。江戸時代中期に行く前に、宿題をひとつ片づけたいと思います。蒲生氏郷です。

天才武将にも弱点があった。それは町割が下手ということ――そんな巷説がすっかり定着してしまった蒲生氏郷の町割を検証します。

彼は、本当に町割が下手だったのでしょうか。

いま、ネットに広く流布している氏郷伝

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(1)江戸時代前期

# 第4章 史料文献調査
防衛策として街路屈曲説が現れるのは江戸時代中期から

## 4.1. 文献調査の必要性について

仮に、
「大名は防衛のため城下を迷路化させた」
というのが真実で、全国的にどの大名も実践した定番の手法であるならば、その証拠は当然に当時の文献に見いだせなければなりません。

「いや、それは軍事上の秘伝だから、おいそれと文書に記されるわけはない」
と、あなたは反論するでしょう

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(9)集計結果

## 3.5. 集計結果と地図調査の結論――城下町と非城下町に極端な差はない。そして、やや城下町の方が道が良い。

### 3.5.1. 集計結果一覧

城下町の集計結果を表 3.5.1と表 3.5.2に、非城下町の集計結果を表 3.5.3と表 3.5.4に示します。

表 3.5.1: 城下町集計結果(1)

表 3.5.2: 城下町集計結果(2)

表 3.5.3: 非城下町集計結果(1)

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(8)九州編

### 3.4.7. ■九州編

#### 3.4.7.1. 小倉城(福岡県)

図 3.4.7.1: 小倉城

こんなん笑うわ。卑怯!これは卑怯!
「大名が防衛のために城下を複雑化させたって本当?」
と調べてる人間に、小倉城の東半分を突きつけるのは卑怯と言うほかないでしょう。笑うしかないじゃないですか。

一方で西半分、主郭の存在するエリアはどうでしょう?

上級武士の侍屋敷は二の丸にあります。

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第3章(7)四国編

### 3.4.6. ■四国編

#### 3.4.6.1. 丸亀城(香川県)

図 3.4.6.1: 丸亀城

見ての通り、はっきりと方格設計が存在しています。

十字路の割合も、交差点総数が50~100の城下としては高い比率です。目抜き通りが南北に貫き、おおむね左右対称である都市設計は、中国大陸から伝わった都城制のフォーマットに沿っています。

北側の大手門の前に枡形のような広い空間が設けられ

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