天文6年(1537)12月1日は毛利元就の嫡男隆元が山口の大内義隆へ人質として送られた日。19日に元服し義隆から偏諱を受けて隆元と名乗り3年を山口で過ごす。この頃の毛利は大内と尼子に挟まれどちらかに従属する必要があった。生き残るため差し出さなければならない大切なものは何なのか。
天文9年(1540)8月16日は尼子晴久が大内義隆の石見銀山を奪取した日。最盛期には世界の産銀量の3分の1を日本が占め、かなりの部分が石見銀山とされ現在は世界遺産。この日に限らず大内、尼子、毛利が何度も争奪戦を繰り返した。いま何が原因で争っているのか。銀山ならわかりやすいですが。
天分20年(1551)9月1日は大内義隆が陶晴賢の謀反で自害した日。大寧寺の変。当時西国随一の大内氏崩壊により勢力図が大きく変わるきっかけに。遠征失敗から義隆が政務放棄し文治派の重用で武断派の晴賢らと対立の結果。やる気を無くし部下の対立を招き組織が崩壊って一つの型でしょうか…。