淡々と生きるとは目的が明確な様である。喜びの中で淡々と生きられるようになる。そうなるのが理想だ。日々のタスクを喜びの気持ちで行っていけるようになる、それが幸せの姿といっていい。「淡」という字は水を表す「さんずい」に火がふたつ。つまり、熱い思いを持ちながらクール生きるということ。
今を生きる。我々は、日々、生きるという貴重な経験をしている。だから、生きることをなおざりにしてはいけない。しかも、今はエゴの自分をスピリットの自分へと還せる貴重な時期でもある。この時期に自己統合を果たすことは、魂にとっての願いでもあり、この今を心して生きることが魂の望みでもある。
表現するのは喜びだ。僕らは表現するために生きている。表現とは表に現すこと。だから遠慮してはいられない。遠慮していると、この気持ちは伝わらない。勇気を出して伝えてみよう。勇気を出して声にしてみよう。声は伝えるためにある。手は創るためにある。心は思いを伝えるためにある。この想いを‥。
人は未知なることを知り、納得して生きていきたいという思いがある。このため、初心の中には、これから体験することで新たな知識や知恵を得られるという喜びと、この先、自分が進化していけるという期待感がある。なので、初心の純粋性を忘れずに過ごしていけば、毎日を新鮮な気持ちで過ごしていける。
我々は「空」である。これまでは「空から色」、つまり、精神から物質の時代だった。しかし、これからは「色から空」、物質から精神の時代に変わる。現在はその転換点。だから、これからは空というべき「精神とは何か」を知らなければならない。そのためにも、自分とは何かという探求が欠かせない。
4月4日から二十四節気の「清明」に入った。清明とは、春の穏やかな日々の清々しく明るい様子ということ。春はまさに生命が躍動し始める季節。この世界の万物は、常に前を向いて生きている。僕らも、彼らに倣い過去に囚われることなく未来に向けて明かりを灯せば、清々しく生きていけるようになる。
法事で故郷に行ってきた。父の遺産の書を持ち帰って、壁にかけてみた。情けないことに先頭の2文字が読めない。
過程が道を創る。丁寧に穏やかな気持ちで日々を過ごせば、綺麗な道を創ることができ、楽しみながら喜びを感じて日々を過ごせば、楽しい道を創ることもできる。道はこれまでの生き方が反映され、これから先の道は、日々の心掛けによって創ることができる。人生の道は末広がりに大きくしていけばいい。
我々は、この地球上で唯一、創造を楽しめる種である。逆にいえば、我々は、何かを生み出すために、この地球に存在しているといってもいい。創造することは喜びであり、創造することで人は成長する。だからこそ、何かを生み出そうとする心を止めてはいけない。創造することで我々は進化し発展していく。
受容とは、出来事に抗うことなく自分の中に取り込むこと。辛いと感じることを受容できるようになるには時間がかかるもの。しかし、一度、受容できると前を向いて歩いていけるようになる。受容によって人は愛を育むことができ、その分だけ自分の器が大きくなる。器の大きさは、愛の大きさを意味する。
人は常に変化していく存在である。では、どう自分を変化させていけばいいのか。それは日々の生活から気づきを得ながら、自分という器を大きくしていけばいい。私という器が大きくなれば、波が立ってもすぐに凪ぐ。自分を深く知り私を変容させ続ければ、やがて心が穏やかになり調和の中で生きていける。
人はイメージした内容に向かって進んで行くことで、それを実現することができる。イメージできるということは、その未来がすでに存在しているということ。自分の中に明るい未来が訪れることを許して認めれば、それが起こるようになる。そのためにも、未来と今をリンクさせ楽しんで生きていけばいい。