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「日高祭25」開催目前。日高郁人に聞く独自のキャリアと「50歳のアイルビーバック」

 日高郁人がデビュー25周年記念大会『日高祭25』を10月23日に開催する。会場は川崎のクラブチッタ。プロレスというよりライブ会場として知られている場所だ。
 日高祭の「祭」はフェスと読む。プロレスの試合だけでなくバンドやアイドルのライブ、同じ島根出身の先輩・豊田真奈美のトークも。サブ会場でのアイドルイベントもある。ポスターには日高を中心に出場選手、アーティストが並ぶ。
 自分の周年興行なんだからポスターも日高単独フィーチャーでいいんじゃないかと思ったが、そこはやはりフェス。現在のバージョンを見て、日高は思わず「これ、僕が大きすぎないですか?」と言ったそうだ。妻のあびこめぐみ(歌手)を通じてミュージシャンとの交友も増えた。いろんな出会いがあって今の日高郁人がある。それを見せるのが25周年記念のイベントだということだろう。

 メインイベントは日高郁人&阿部史典vsCIMA&高岩竜一。25周年のパートナーが阿部というのは感慨深い。
「阿部は僕の20周年大会の第0試合に出てるんです。そこから僕との相席タッグでベルトを取って、今回はメイン。本当にたくましくなりましたよね。僕にとって5年はあっという間。でも彼のような20代の選手には長くて濃い。5年前は澤宗紀に紹介されて、お披露目みたいな意味で出てもらったんです。人の目に留まって、試合のチャンスが増えればいいなと。今回も阿部だったり青木(いつ希)だったり、若い選手が目立ってくれたらいいなと」
 今大会では男子の試合も女子の試合もあり、バンドもアイドルも。ということは観客にとっては「この選手(バンド、アイドル)初めて見た」ということも多いだろう。日高祭はそういうきっかけ、観客にとっての新たな出会いにもなるイベントだ。各試合それぞれにテーマもある。
 高岩に関しては説明不要だろう。ZERO1ジュニアでしのぎを削ってきた関係。CIMAとは異色の顔合わせだが、実は日高と同期だ。それでいて違う道を進んできた。過去にはみちのくプロレスの6人タッグで2度対戦。デビュー翌年(1998年)のことだ。その後、2020年には超プラズマ爆破デスマッチでぶつかった。この時は同時に爆破されている。本格的な激突は今回が初と言ってもいい。
「プロレスラーとしての道のりだったりファイトスタイルも違う。みちのくで当たった時はお互い若かった。今やってみてどうなるか。予測がつかない分、楽しみでもあります」
 日高が設立したショーンキャプチャー所属の青木いつ希は真琴と組み、彩羽匠&タイガー・クイーンと対戦。日高は現在、クイーンのセコンドを務めている。土方隆司&伊藤崇文vsスーパー・タイガー&原学も日高祭ならではのカードだ。
「土方はバトラーツ時代の、僕の最初の後輩です。原はバトラーツで僕が最後に誘って入れた選手。スーパー・タイガーはデビュー戦の相手を僕がやらせてもらった。そして伊藤はもう、18歳、19歳の頃からの仲ですね」

 プロレスラーに憧れた少年時代の日高だが、一度は就職。しかし夢をあきらめきれず、配属先の大阪で栗栖正伸トレーニングジムに入会する。トレーニングジムではあるがプロレスラー志望者も多く、その中に伊藤がいた。
「ロングスパッツはいてレスリングシューズで。“プロレスラー志望はこれだよな”っていう感じでしたね。栗栖ジムをやめてからも吹田レスリングクラブでスパーリングやったり」
 伊藤はパンクラスの入門テストに合格し、一期生としてデビューを果たす。日高は少し遅れて格闘探偵団バトラーツへ。どちらもプロフェッショナル・レスリング藤原組から派生して旗揚げした団体だ。
「藤原組からバトラーツができて、最初の選手募集に応募しました。もうこのタイミングしかないって。僕は体も小さいですし」
 選手がたくさんいる、軌道に乗った団体では合格できないと考えたのだ。
「団体に何かあったら真っ先にクビになるのは自分だなって思ってました。だから練習だけじゃなくて、やれることは全部頑張ろうと。ちゃんこ作りもそうだし掃除、雑用も。どんな形でもいいから“日高は必要だ”と思われるようにしなきゃいけない。同期が1ヶ月でやめたりする中で、そんなことを考えてましたね。もちろん、自分からやめてしまいたくなる可能性もあると考えてました」
 練習をはじめ新弟子生活の厳しさから“夜逃げ”をする者は少なくない。自分がそうならないためにどうするか。入門前日、日高はすでにパンクラスでデビューしていた伊藤に会っている。
「伊藤に持ってるお金を渡したんですよ。僕が夜逃げするとしたら、まず大阪。友だちもたくさんいるので。当時、大阪行きの高速バスの値段が6000円くらいで。だからバスに乗れないように、6000円に足りないくらいのお金だけ残してあとは伊藤に預けました。入門してしまえば、寮に住んでちゃんこも食べられるしお金はなくても大丈夫だろうと。交通費が必要な時もあって、ちょっと焦りましたけど」
 不退転の覚悟を、実際に行動に移したわけだ。新弟子生活をしばらく過ごし、もう大丈夫だとなったところでお金は返してもらった。伊藤とは2002年、総合格闘技イベントDEEPのリングで再会を果たすことになる。

 いわゆる“純プロレス”も総合格闘技も違和感なくできる。それが日高というレスラーだ。バトラーツはU系の流れをくむだけに、練習はスパーリング中心。だが日高に関してはそれだけではなかった。
「僕もスパーリングがやりたかったんですけど、船木さん(船木勝一/ショー・フナキ)が受身の練習もさせるんですよ。ドロップキックも。それでデビュー戦からドロップキックを使って。デビューが決まった頃かな、船木さんに“お前はどんなスタイルでやりたいんだ”って聞かれて“U系の格闘スタイルです”みたいに答えたら“無理だよ”と(笑)。U系のスタイルでやるんだったら田村(潔司)さんくらいの腕がなくちゃダメだって。船木さんは藤原組時代に新日本に出て、受身で苦労したそうなんです。頭を打ってしまったり。そういうこともあって、プロレスラーになるからには受身も大事なんだって考えてたんでしょうね」
 船木に教わったことを痛感したのは、キャリア3年目のアメリカ遠征だ。舞台はECWだった。
「2戦目がECWアリーナのTVマッチで。本当に落ち込みましたね。プロレスに対するスタンスが違いすぎたというか。バトラーツではとにかく相手に向かっていくプロレス。でもアメリカではお客さんを凄く意識するんです。なおかつECW独特の雰囲気もあって。その時はTAJIRIさんの家で一緒に住んでたんですけど、TAJIRIさんが日本に行っていてアドバイスも聞けない。TAJIRIさんの家に一緒にいるのはスペル・クレイジーという(笑)」

 みちのくプロレス参戦、藤田ミノルとの相方タッグでの活躍など、日高は純プロレスでその技量を発揮していく。数年前、ZERO1所属時代に北村彰基とのシングルマッチで見せた多彩な腕攻めには驚かされた。U系とはまた違う関節技だ。
「あれはZERO1-MAX時代だったり、いろんな外国人選手から学んだものですね。試合だけじゃなく試合前に一緒に練習して。当時、来ていた外国人選手、たとえばスペル・クレイジーだったりアレックス・シェリーだったりジョナサン・グリシャムも。試合で出す、出さないはありますけど、深い技術を持っている外国人がたくさんいたので」
 自分の技術の幅を広げ、ブラッシュアップすることを怠らなかった。根底にあるのはバトラーツの闘いだという。やはり軸となるのは「強さ」だと。相手の動きをいかに抑えるか。体のどこを掴み、体重をかければ効果的か。日高や田中将斗の試合を見ていて思うのは“ベテランの味”で勝負していないことだ。テクニックで翻弄するのではなく、若い選手とも真っ向勝負。蹴られたら同じ数だけ蹴り返す。なんなら倍返し。そういう闘いだ。
「だって蹴られたら痛いし、痛いとムカつくじゃないですか(笑)」
 今年8月で50歳になった。「自分が50歳って、笑っちゃいましたよ」と日高。年齢はただの数字と思いつつ、50はさすがに大台だ。筆者も同い年なので、感覚が分かる。
「自分が若い頃に思ってた50歳とだいぶ違うんですよね」
 何かもっと貫禄のある“大御所”みたいになっているのかと思ったら、全然そんなことはなかった。それはいい意味で、でもある。練習して、試合して、蹴られたら蹴り返して。そこにはなんの変化もない。
「アイルビーバックのスピードが落ちたらいろいろ考えなきゃと思ってたんですけど、今のところ落ちてないんですよ(笑)」

 30代後半の頃の練習が大事だったと日高は考えている。
「バトラーツでも教えてもらったキックボクサーの小林聡さんが引退して、また指導してもらうことになったんです。野良犬ハイキックの名前をもらった人ですからね。また鍛えてもらおうと。これが厳しいんですよ。マススパーもガンガン蹴り込んでくる。聞いたら他のキックボクサーはそこまでやらないらしくて。なんでなのか小林さんに聞いたら“出稽古に来た選手と軽くスパーやると、小林聡もたいしたことなかったって吹くヤツがいるんですよ。だからキツく当てるんです”って。
 それは分かりますけど、なんで僕にやるのか(笑)。でも、キツい練習をやることが大事だったのでありがたかったですね。プロレスの練習やって、ジム行って、キックもやって。当時それなりにキャリアがあったつもりですけど、帰り道に涙が出てきた時もありましたね。でも体力が落ちてくる30代でしんどいことをやってきたから、今も動けてるんだと思います。キツいことをやってきたというのは、メンタル的な支えにもなりますし」
 20周年のお祝いに、かりゆし58の前川真吾が日高をイメージした曲『太陽のひと』を作ってくれた。
「その中に逃げない、ブレない、ごまかしはしないという内容があって。それが凄く刺さりましたね」
 日高祭もそうだが、現在は周囲の人間たちのため、あるいは後に続く者のための活動も意識している。2019年にはパーソナルトレーニングジム「フレンジ」を開設。プロレスで培ったトレーニングのノウハウを一般に還元している。ショーンキャプチャーに所属する青木の指導も大きい。日高から「もう勢いだけじゃダメだから」と言われたと、青木に聞いた。昨年のことだ。
「ファイトスタイルはどんなものでもいい。彼女は元気があって勢いがあって、それが魅力の選手です。ただそこに“軸”がないといけない。プロレスラーとしての強さですよね。そういう部分をしっかり教えていかないと、と。最初は本当にまだまだでしたから」
 SEAdLINNNGでのハイスピード・アドバイザーやタイガー・クイーンのセコンドなど、試合以外の仕事もある。
「そういうこともしっかり仕事としてやってますね。経験とか技術を伝えていくというのもあるし、身につけたものがしっかりしていれば、試合以外でもプロレスに携わることができるよと。プロレスラーの仕事の仕方、その幅を増やしていけたらいいなと」
 プロレスラーとして幅の広い生き方をしてきたのが日高郁人だ。2020年にZERO1を独立、より活動に独自色が出てきた。それが凝縮された舞台が『日高祭25』だと言うこともできるだろう。いろんな人間にいろんなことを学び、伝えてきて、最近は阿部が「アイルビーバックはもう僕の技ですね(笑)」くらいのことを言っているらしい。ここはやはり、衰え知らずの本家のキレ味を感じたいところだ。



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