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灼熱と月と。体で味わった旧川崎球場・佐藤光留20周年。

これまで数え切れないくらいプロレス・格闘技の興行を見てきて、その中のベスト興行の一つが2000年8月の『PRIDE.10』西武ドーム大会だ。

夏の西武ドームはとにかく暑かった。凍らせたパック入りのスポーツドリンクが飛ぶように売れて、自分も買ったけどあっという間に溶けた。大会数日前にアンディ・フグが亡くなって、そっちの取材もあってとにかくバタバタだった。そういう中で石澤常光がハイアン・グレイシーに敗れ、桜庭和志はヘンゾにミラクル的な一本勝ちを収めた。アントニオ猪木がプロデューサーに就任したのもこの大会だったか。

いや、だから「この試合がよかった」とかだけではなくて、暑かったとか遠かったとか忙しくてフラフラだったけど充実してたとか、そういうのも込みでのベスト興行。シチュエーションや皮膚感覚も大事なわけだ。

何の話かというと、8月29日の佐藤光留興行である。昼がハードヒット、夜は佐藤光留デビュー20周年記念大会『変態と呼ばれて』。会場は富士通スタジアム川崎である。旧川崎球場だ。

当日は昼から東京女子プロレスの新宿FACE大会があり、トーナメントのファイナルということでまずそちらに。コメント取材などを終えて14:30くらいになり、ソワソワしながら川崎に移動しつつニコプロでハードヒットの生中継を見る。こちらは14:00スタートだ。電車の中で前半戦が終わり、休憩に。お、ここで休憩か。急げば後半間に合うな。ということで川崎駅からタクシーに乗って会場へ。受付を通ると試合前のロッキー川村に出くわした。

アリーナ、じゃなくてフィールドに出ると真ん中にリング。暑いなんてもんじゃない、灼熱だ。できれば近くで見たいんだろうけど、壁際の日陰に座る人も多かった。写真で見ると芝生に座ってのどかな感じもするんだけど、実際にはその場にいるだけで“闘い”という感じだ。あぁ、西武ドームもそうだった。この“実際の感じ”を体で味わうのも取材の一環なんだと再確認させてもらった。

日差しを遮るものが何もないフィールド中央のリングでの闘い。選手はバテやすかったはずだが、ロッキー川村と阿部諦道はバッチバチに打ち合った。阿部のエレクトリックチェアーも印象に残る。観客は暑いけれども“声援OK”の観戦を楽しんでいたようだ。何しろ屋外、三密対策は完璧である。それが今は特別なことにも感じる。

メインではトーナメント1回戦で佐藤光留と関根“シュレック”秀樹が対戦した。このトーナメントの、ハードヒットの、昼夜興行の主役であるべき佐藤だったが、関根のジャーマンからの腕ひしぎ十字固めで敗れている。ここで負けるのか。なんとも言えない雰囲気。それでも佐藤がマイクを取ることはなかった。「勝った人間が締めて」、そう関根に言っているのが聞こえた。

「悔しいですよ。負けたら悔しい。プロレスだから負けてもいいとか、格闘技だからつまらなくていいとか、そういう考えに反抗してやってるんで」

試合後のコメントはあくまで選手としてのものであって、プロデューサーとしてではなかった。全体を振り返るのは、この時点ではまだ早かった。

夜興行は18:30から。『変態と呼ばれて』というタイトルがついた大会を見に来た人間も、まあ変態と言っていいかもしれない。2020年に(旧)川崎球場で昼夜興行をやろうというのが“変態”佐藤光留らしさ。大事な大事な大会の開催を決めたら、同じ日に日本最大のメジャー団体が神宮球場でビッグマッチ。それもまた佐藤光留らしい“下水道”人生か。客層はそんなに被ってないにしても、話題性は思いっきり食われる。浮動層の集客は厳しくなる。

大会までの佐藤のSNSは愚痴のようでもあり決意を強くしているようでもあり、痛々しくもあり見ものでもあり、つまりは佐藤光留のキャリアそのものという感じだった。

ユルユルで楽しい李日韓デビュー20周年があり、大仁田厚の試合は急きょ爆破マッチとなり、とんでもない爆音と爆風を起こした。川崎球場でのプロレスといえばFMW、佐藤光留はそもそもFMWに入りたかった男でもある。

佐藤のことはデビュー直後くらいから見ていると思う。もちろんパンクラスでの試合。ネオブラッド・トーナメントで長南亮や三崎和雄といった、後にメジャーイベントでも活躍する面々と対戦していた。といって目立つ存在というわけでもなく、当時はグラバカがパンクラスを席巻していた。パンクラス本隊で気を吐いていたのは近藤有己だった。

それでもメイド服姿になってみたり、ちょっとこれは普通の“パンクラシスト”とはまた違うタイプなんだろうなと思うようになってきた。DEEPでのルチャ勢との乱闘、熊本でのパンクラスZも印象深い。プロレスに戻ったばかりだった鈴木みのるがアステカと対戦した大会だ。佐藤はメインイベントで松本天心に一本勝ちしている。これも取材行ったなぁ。2005年か。パンクラスと名のつく大会でプロレスやるのはどうなんだと思っていたが、試合後に残ったのは「やるな佐藤光留」という感触だった。

パンクラスの、“純総合格闘技”からははみ出す部分もあった佐藤には、パンクラスZという舞台が似合っていたのかもしれない。彼は師匠・鈴木の後を追うように“純プロレス”へ。DDTで活躍し、ハードヒットを自分のブランドにした。全日本でも自分の思いを常に主張してきた。悔しかったり納得がいかなかったりすることが、いわば原動力だった。同時に、オファーがあれば総合の試合どころか立ち技格闘技シュートボクシングの試合にまで出た。プロレスに行ったら行ったで、そこでは収まりたくないと思う。天邪鬼といえば天邪鬼。それがいかにも佐藤光留だった。

DDT時代には、身近に飯伏幸太という“太陽”がいた。UWFというムーブメントに憧れれば憧れるほど、世代的に出遅れていることに気付かされた。全日本にはデカくて才能を持ったレスラーが山ほどいる。佐藤のキャリアは“持たざる者”としての闘いだった。ひねくれながらも諦めるわけにはいかず、じゃあどうすればいいかというと強くなるしかなかった。自分の生き方をたとえて曰く「下水道」。そこからマンホールをどかして月を眺め、掴もうとする。その闘いは徒労に終わるかもしれず、けれどどうしてもやめられないのだった。

『変態と呼ばれて』のメインイベントも、まさにそういう試合だった。相手は5冠王者・諏訪魔だ。当然のように圧倒される。やられてやられて、なんとか反撃しようとするのが、これまた佐藤のキャリアそのものだった。旧川崎球場は夜になると風も出て涼しく、抜群のムード。空にはクッキリと月が出ていた。オープニングの主催者あいさつも、諏訪魔のスリーパーで半失神状態になったところも、バックドロップでブン投げられたところも、すべて月に照らされていた。神宮方面では花火が上がっていたが、佐藤光留には月明かりのほうが似合うってもんだ。

ラストライドを思いっきり食らって、佐藤は負けた。昼夜2連敗。けれども「勝った気分だぜ」と大会を終えた彼は言ったのだった。陰口を叩かれたし嗤ってたヤツがいる。自分より顔がいいヤツ、才能があるヤツもいた。大会やってもいつも取材が少ないし話題にならない。話題になりそうなことをやったら“メジャー”が後から(その気はないけど)潰しにくる。

だけどやめずに闘って20年だ。他の誰にもできない記念大会を彼はやった。「ザマーミロ!」と何度も何度も言って、でもそれだけでなく「ありがとう」とも言った。

大会を決めやてからの日々について聞くと一言「地獄」である。
「くせーし光当たんねえし、来たと思ったらネズミだし。でもドブネズミがたくさん集まりゃこれだけのことができるのさ。地獄も楽しかったよ」

負けながら、下水道に這いつくばりながらの20年。21年目もそうなるか。ただ言っておかなきゃいけないのは、負けることに、“下水道人生”に耽溺しているわけではないということ。勝ちたいと思うからやめなかったし、やめないことで自分なりの“勝ち”を掴んだのが8.29川崎だった。

いや、どの業界でもそうだと思うんだが、才能あってもアッサリやめちゃう人はいるものだ。自分がいるマスコミ業界もそう。仕方のない事情もあるんだろうけど「陽の当たる道しか歩きたくないのかな」と思ってしまう場合も。まあ嫌な奴もいるし。やめたきゃいつでもやめられる。でも、だ。佐藤光留は泥水すすってでも好きなことやりたいと思ってやってきた。いや好きなことを諦めたほうが泥水すすらなくて済んだ可能性もあるんだろうけど、そういう「もしかしたらあり得た可能性」をこそスッパリ諦める人間がいるのだ。

泥水すすって、月に照らされて。佐藤光留だけの特権だ。他にない記念大会だ。「やめなかった」から今がある。でもきっと「やめさせなかった」周囲の人間もいる。「コイツをやめさせちゃいけない」と思わせるものが佐藤光留にはあって、それがつまり彼の才能なんだと思う。いい20年じゃないか。年間ベスト興行の有力候補と言っておきたい。

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