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ところで、あなたはなぜ書いてるんですか?

僕が参加している「ことばと広告さん」が主宰するnoteメンバーシップ「書く部」でこのお題が出されました。

かなり深い意味がありそうな感じですよね。

たしかに「いいこと」があるからこうやって書いているワケでね。ということで、今回は思い浮かんだ「なぜ書くか?」を少し書いてみましょう。

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まずは「書くと考える」「書いて考える」ですね。

noteに書くからには人様に読んでいただくことになる。なので少しでも興味が持てるテーマを選び、それに沿ったものを書く。もちろん自分も興味があることです。

頭で考えたことを文字に変換する。文字になると自分の考えに客観性が持てるようになる。そしてまた考えるを繰り返す。このプロセスがいいんじゃないかと思うんです。

その結果、いまは以前よりも「深く考えること」が習慣になりました。

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ついでに「深く考える」で思い出したのですが、僕は子どもの頃、勉強は嫌いで出来なかったんです。

それでも少し頑張った時期がありました。

そのときの勉強法はというと、授業中は板書だけでなく、先生のコメントまでノートに書いて、家でそれを見直す。大事な箇所や疑問点は教科書や参考書で深掘りしてノートへ書き込み補強するを、繰り返していた記憶があります。

やはり書いたことで、深く考えると「記憶に刻まれる」んですね。

だからこうやって日々の出来事をnoteに書くと、「去年の今ごろは何を書いたっけかな?」と読み直す。すると「俺はこんなことを考えてたんだー」と過去の自分を発見したりする。

<去年4月の記事です↓>

こんな「自分探し」もなぜ書くか?の一つだと感じています。

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では最後に「なぜ書くか?」をもう少し広げて「なぜ表現するか?」をひとつ。僕が心より尊敬する「坂本龍一さん」の本に感銘を受けた箇所を引用します。

表現と言うのは結局、他者が理解できる形、他者と共有できるような形でないと成立しないものです。だからどうしても、抽象化というか、共同化というか、そういう過程が必要になる。すると、個別な体験、痛みや喜びは抜け落ちていかざるを得ない。そこには絶対的な限界があり、どうにもならない欠損感がある。でも、そういう限界と引き換えに、全く別の国、別の世界の人が一緒に同じように理解できる何かへの通路ができる。言語も、音楽も、文化も、そういうものなんじゃないかと思います。

「音楽は自由にする」坂本龍一 新潮社より

喜びや悲しみや怒りをかなりの熱量を持って伝えても、彼我の理解の限界がある。けれどもその限界と引き換えに、僕の伝えた喜怒哀楽が受け取った人の人生の経験となり、何かが生まれる通路になる。

「ところであなたは、なぜ書くんですか?」の問いに対して「僕の文章を受け取った人と人生の一部を共有するからだよ」との答えで今回は締めたいと思います。

少しでも、受け取っていただける文章を、心に届き心に響く文章を、

書き続けましょう。僕は書き続けます。

それではまた。

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