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薬屋の生活と意見

わたしは薬剤師の資格を持っている。

国家試験に合格してすぐに、ドラックストアで働いた。学生時代にアルバイトをしていたので、仕事内容はわかっていた。何より、朝あまり早く出勤しなくていいのがよくて、「遅番」という魔法の言葉が大好きだった。帰りがちょっとぐらい遅くたって、朝ゆっくりできるなら幸せだ。おかげで満員電車に縁のない生活を送ることができていた。

3年の月日が経過した。その間、3か所の店舗を経験して、それぞれの街の良さも知ることが出来た。最初の店舗はJRと関東鉄道という私鉄が接続している駅ビルで、サラリーマンや高校生が多く利用する店だった。毎日いろんな人たちが行き交う場所だ。記憶に残っているのは、買い物もしないで「ケロちゃん(の人形)くださーい」と遊びに来る高校生たち。恐れを知らない可愛らしさが炸裂していて羨ましかった。あぁ、戻りたい。自分は社会に出てしまったことを痛切に実感した。そして、初めての上司であるS店長。足を引きずって歩く姿といい、ちょっとシャイなところといい、わたしの父のような人だった。言葉を選んで話すわたしをみて、「お前はアー、ウー、星人だなあ」といつも笑っていたことを覚えている。

2店舗目は、ホームセンターの隅っこにある店舗だった。同世代の化粧品担当のA店長がわたしの上司として勤務していたが、「あなたは(部下として)使いやすい人だよね」と言われたことを強く記憶している。確かに、拡声器片手にタイムセールの呼び込みもした。褒めてくれているのはわかったけど、使いやすいって何だろう?便利屋か?女性が上司になるのも初めてで新鮮だった。あと1人、年下の化粧品担当のYちゃんと3人でキャピキャピしながら切り盛りしていた店は、女子高さながらのノリだったように思う。

最後の店舗はお寺の近くで、毎月の大師さまの縁日に合わせ、洗剤やら何やらを山積みして売っていた。お参りに来る人たちが、帰り道に安売りの洗剤を手土産に買っていくのだ。信ずるものは救われる、日本らしい光景かもしれない。そんな街を、わたしは自転車で通勤していた。田舎者のわたしにとっては、どの街の景色も新鮮だった。この時期あたりから、自転車のスピードで眺める景色の良さに気がつき、知らない街を自転車で探検する事が好きになったように思う。

ここまで書き連ねたが、薬剤師らしい話題は一つもない。あるのは、その街とそこで関わった素敵な人たちとの記憶ばかりだ。

***

病院に転職した。

小学生の頃、学校帰りに父が勤務する病院の外来に遊びにいくのがわたしのルーチンだった。病院に行くと、いろんな人たちがいて、いろんな部屋があって、いろんな仕事があるということは子供なりに感じ取っていた。独特の消毒薬の匂いも覚えている。そんなわたしも、ようやく病院で働くようになったのだ。

前職よりも始業が早かったことや、今度は社会人らしく電車通勤してみたい、などと考えを巡らせ、それなりの場所を選んでアパートを借りた。けれど、のちに電車より自転車で近道すると早く職場に到着することが判明する。結局、自転車で通勤する日々となった。電車の時刻に合わせる必要がなく、自分のペースで動ける自転車は、結局のところ、わたしらしいアイテムなのだろう。

一度だけ、一泊だけ、自分が勤務する病院に入院した事がある。

ある日の終業後、病院の50周年パーテイの打ち合わせを行い、終わってから歯医者に行った。歯茎に塗布された化膿止めが、疲労困憊のわたしの身体を蝕んだのか、あっという間に全身が痒くなり、息苦しくなった。必死に自宅に戻って、鏡で自分の姿を確認したところ、発疹だらけでゾンビのような顔が映り、愕然とした。過呼吸を起こしてしまったこともあり、やむなく救急車を呼んだ。軽度のアナフィラキシーだった。救急隊員さんから、どこか知っている病院はありますか?と聞かれて、わたしは自分の職場を指定した。病院勤務、実に有難い。いつも自転車で猛ダッシュしていた道を、救急車という乗り心地の悪い乗り物でガタンゴトンと移動して、妙な時間に見慣れた病院に戻った。救急外来には内科外来の美人のY看護師長がいて、思わず「ただいま」と言ってしまった。アナフィラキシーで気道が塞がれることがあれば死に至る。でも、わたしは名前を名乗り、おしゃべりできていた。当直医から「死なないから大丈夫」と言われ少し安心した。200mlの小さな点滴に、ステロイドという指示が頭の上で聞こえた。点滴が終わったら帰っていいと言われたが、1人暮らしだったわたしの不安を汲み取ってもらい、一晩泊めてもらった。点滴も、時間をかけられる分、500mlの大きな瓶に変更してくれた。

医療というものは、対話が大事なんだなあと、こんな場面で学ばせてもらった。

たまたま開きがあり、最上階の個室に泊めてもらった。わたしが入院した最上階の病棟の隅っこに、通い慣れた薬局がある。明日の朝、どんな顔をして薬局に顔を出そうかなどと思いを巡らせるうちに、点滴が効き始めた。徐々に眠気を思い出し、ウトウトと眠った。この病院、日蓮宗の総本山にあたるお寺の近所にある。噂には聞いていたけれど、朝5時に大きな大きな鐘の音がゴォーンと病室に響いた。とんでもない目覚まし時計だ。これでは目がさめない方がおかしい。入院している方々はどうしているのだろう?二度寝するのかな?いろんなことを考えているうちに、朝ごはんの時間が来てしまった。その後、病棟のH看護師長や、主治医の先生が大変だったね、という表情をして病室に顔を出してくれた。主治医は、仕事のことで何かと頼りにしていた内科のM先生だった。診察してもらい、退院の許可が降りた。病院というところは、いろんな人が関わり、チームプレイで成り立っていることを実感した一夜が終わった。

わたしは病院というチームに、薬剤師として所属していた。薬剤師が扱う医薬品は、いろんな職種を繋ぐアイテムだ。だからわたしは、自分の仕事は病院の中を繋ぐハブのようなものだと自然と考えるようになった。大事な要件は電話ではなく、自分の足で相手のいるところに出向く、ということを愚直に繰り返しながら、病院中のいろんな職種の人たちと関わり続けた。そうすると、信頼関係は自然と出来上がる。この病院で身についた感覚が、今の仕事の土台になっているのだろう。病院を退職する日、M院長に「ここの病院に来て良かったです」という言葉を伝えて辞めることができた。

やっと、薬剤師らしい文章になった。

田舎に帰り、転職した。
自分に合いそうな求人は、精神科専門の病院と、新規開業する保険薬局との2択だったが、薬局の社長から声がかかり、面接して今に至った。今、「薬屋の生活と意見」と題してあれこれ書き連ねているが、「薬屋」という表現、実は正しくない。わたしが働く薬局は法の上では医療機関であって、商店ではないからだ。でも、飴も売っているし、ジュースや雑穀も売っている。「ここの黒飴美味しいから」と買い物に来てくださる方もいる。わたしは、薬屋のおばちゃんでいいのだ。あれこれ色々なアイテムを扱うのには一つだけ理由がある。開業してまもなくのころ、品のある高齢の女性からこんなことを言われた。

「お菓子でもなんでも、売ってあげて。ここはみんな、買い物に出かけるのが大変なのよ。」

それだけ、田舎にある薬局だ。地域に何かを提供する責任は重い。近くにあるコンビニも、全県の売上上位に入るらしい。それは、近くにスーパーマーケットがないからで、コンビニが地域の生活を支えている状況だからだ。とある患者さんの話で、嘘かホントかはわからないが、他の薬局でここに飴は売っていないのか?と尋ねたところ、「うちは飴屋じゃありません!」と薬剤師さんに怒られたという話を聴いたことがある。わたしにはそんなプライドはない。

あるとすれば、桜の樹のごとく、ここに居続けたい、ここで仕事を続けたいという思いだけだ。

#日常 #エッセイ #自己紹介 #くすりやの独り言


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