ひとり交換日記#Y

どんどんいこう。
今回は#高校編で。

拝啓 私へ
お元気ですか?
青春の代表格、華の高校生だったころのこと。
まだ最近ですから覚えているはずです。
どうか忘れないでね。
私はとても楽しかったから。

高1のとき、私は高校選びを間違えたことに気づいた。
1番最初のテストから学年トップ10入りを果たしていたが、いかんせん周りが動物園だった。
遊べる進学校がうちの裏の売りで、文化祭も体育祭も派手。制服がなく、校則は緩い。ピアスOK、髪染めもバレなければ。スマホもOK、授業中に鳴っても「小鳥が鳴いてる」とか言って見逃してくれていた。ありがとう先生。
しかしそのせいで勉強に意欲的な人は少なかったし、治安こそ良いが態度があんまり良くない生徒が多かった。
今考えると普通なのだが、高校に期待を持っていた私からすると絶望だった。
アホばっかり…と早々に殻に籠った私の交友関係は狭く、最初に隣の席に座っていたtちゃんと2人でずっといた。彼女はソフトボール部に入って、バリバリ球を投げるピッチャーだった。ショートカットがよく似合う、おしゃれなお姉さんだった。好きなものはボルボックスと透明標本とクラゲいう個性の塊だったが。ちなみに彼女とは今でも仲がいい。一緒に旅行したりする仲だ。
頭がいい以外に取り柄がなく口数も少なかったが、クラスの秀才役をもらえたので仲間外れなどに合うことはなかった。
幸い、高校の授業は楽しかった。
偏差値66?あたりだったので進学校だったし、嫌な先生は少なかったように思う。
部活には入らなかった。
中学で懲りていたのと、携帯を持つためバイトする他なかったからだ。
このせいで私は他クラスにまったく知り合いがいなかった。教科書を忘れた時などは苦労した。
高1の1年でよく覚えているのは東上というやつで、ヒガシウエだったかトウジョウだったかなんと読むか忘れた。どちらかが本名でもう片方があだ名だったのだが、紛らわしすぎて先生さえ間違えていたくらいだった。誰だこんな分かりにくいあだ名をつけたのは。
彼とあまり話したことはないが、彼は私をよく慕ってくれた。?
無口な私に毎朝名指しでおはようとか、帰るときにはわざわざバイバイと声をかけてくれた。
私の容姿が好きだったのか、何が好ましかったのかは分からないが、私に恋人がいないかを探ってもいた。
残念ながらこのときはまだ中学から付き合っている彼氏がいたので彼と距離を縮めることはなかった。
もうひとつ、私の将来の夢に繋がった出来事を書いておこう。
唯一無二のお友達tちゃんがある昼休み不意に泣き出したことがあった。
彼女の家は単身赴任の父、東京に就職して家を離れた兄、ヒステリー気味の母の4人家族。
しかし家にいるのは彼女と母親だけで、2人はよく喧嘩するようだった。
彼女が朝落ち込んでいる時は大抵朝から喧嘩してきた時だ。
理由は些細なことでその時々によって変わっていたけど、ほんとにどうでもいいことだった。ちょっと返事を棘のある感じでしてしまって、とか。片方が急かして…とか。
まあ人間生きてたら関係ないことでイライラしてても当たってしまったりちょっと上手く行かなかったり失敗することなんて毎日のようにある。
2人は相性が悪いのだろう。
彼女が泣いた日も、そうして喧嘩をしてしまった日だったらしい。
母親がキレて彼女に「親なんて口聞くんだ」とか色々罵詈雑言を並べ、彼女は「じゃあそこから飛び降りたらいいんでしょ」と言ったらしい。彼女はマンションの上層階に住んでいる。
母親は「好きにしたら」と言うだけだったという。
どころか、彼女のスクールバックを引っ掴んで廊下に放り投げて「出て行け、」と。
大袈裟でも何でなくて、こういうことは虐待である。
性格や容姿を詰ったり必要以上に罵倒することは精神的暴力である。
それが長期的であればあるほど本人に大きな傷跡を残す。
彼女は朝登校していた時、「喧嘩したー」と苦笑していたが、心はもうズタボロだった。長い年月をかけて傷ついた証拠だろうと思う。
例えばそれが教育のためであったり本人のための叱りであるなら本人だって分かるだろう。日頃の愛がないからそういう言葉や行動だけで膝から崩れ落ちそうになるのだ。その言葉が真実であると知っているから傷つくのだ。
だから耐えられなくて泣いてしまったのだと思う。
私は何もできなかった。
でも私は彼女がいなくちゃ高校がつまらなさすきて辞めていたかもしれない、割と本気でそう思っていた。
私はあなたのおかげでこうして学校に来れていると伝えた。
私も気持ちが痛いくらいわかった。自分を産んだ人間にその価値を否定されるということは、思っている以上に存在意義を否定されることであるということ。
その心持ちに反して、悲しいかな結局私は上手い言葉が思いつかなくて、ただ隣にいることしかできなかった。
悔しかった。
こんなに苦しくて、悲しんでいるのに、それを目の前にして自分は何もできないなんて。
無力すぎる自分が嫌だった。
どうやったら彼女の助けになれた?とずっと考えていた。
そして私は児童福祉司を目指すことになる。
一般人じゃ解決できないなら、専門家になればいいと思ったのだ。
私は今大学で福祉を勉強している。
いつかの彼女のような子を、今度はきちんと救えるようになるために。

高2になって、仲良しのtちゃんとクラスが離れた。
文理選択が始まるので、理系を選択した彼女と文系を選択した私が離れるのは至極当然のことだったが、結構ショックだったのをよく覚えている。新しいクラスに移動するギリギリまで彼女の隣で別れを惜しんだ。まるで遠距離になる恋人みたいに。
新クラスで友達ができることに期待したが、友達作りが下手な私は案の定浮いた。分かりきっていたことである。
昨年同じクラスだった女の子と2人でお弁当を食べていたが彼女とはどうも仲良くできなかった。優しい子ですごく気を遣ってくれるのだが、気を遣われすぎて疲れていた。
移動教室などは基本1人だった。
このとき初めてクラスから浮く寂しさを覚えた。
高2といえば秋に修学旅行が控えていたが、それに行きたくないほどにはクラスにいるのが苦痛だった。
このときのクラスは10クラス中唯一の文理混合クラスで、女子は文系、男子はほとんど理系という歪な構成だった。
さて、そこで私が唯一好んで喋っていた男子がいる。tくんだ。最初に隣の席に座っていた彼は180超えの長身、バスケ部で骨折常習犯の細身な体型だった。
隣の席なので話すことになったのだが、彼は頭が良かった。うちのクラスでは理系トップレベル。趣味は赤チャート笑笑
色々バグっているが、私はやっと自分より頭の良い知り合いができたのでこれ見よがしに彼に分からないところを聞いた。彼は丁寧に教えてくれた。ありがたかった。
やがて彼も私が文系クラストップなことに気づいてテストで張り合うようになってくる。私の点数を聞き出して全教科の合計点数や、共通教科の点数を競った。勝手に競わされていたという方が正しいが。
日常的に席替えをしていたのだが、何度席替えをしても私は彼の横か前後になった。何かの力が働いていたのかもしれないがそれは先生のみぞ知るところ。
次第に彼とどうでもいいことを話して笑うようになった。私は彼のよく笑うところが好きで、放課後も残ってよくしゃべった。青春だった。恋をしていた。
他クラスの友達に「もしかしてあれが彼氏?」と聞かれるくらいには彼と仲良くしていた。私は中学から付き合い続けた彼氏と2年半の交際を終わらせた。これ以上続けられる自信はなかったからだ。
話は変わるが、修学旅行前後で私は新たな友達ができる。
oちゃん。可愛くて勉強熱心、愛想が良くて友達が沢山いる子だった。彼女と廊下を歩くと、何人もの友達が彼女に声をかけるため全然前に進めなかった。それぐらい知り合いが多かったのだ。
そのおかげで私も少し交友関係が広かった。某国立大学医学部に推薦合格した秀才の女の子とも友達になれたし、他にも卒業してしばらくは遊ぶような友達ができた。
3泊4日の東京行き修学旅行は彼女のおかげでほんとに楽しかった。彼女の友達の中には私を煙たがっていた子もいたが、早々にグループ女子が決裂し分裂したので縁が離れていったのだった。
私は彼女とよく喋り、よく勉強した。彼女の勉強に対する姿勢は私も目を見張るものがあった。もっと勉強せねばならないと彼女を見て思った。
やがて高3が近づくと私は休み時間にも勉強するようになった。

高3になりoちゃんとはクラスが離れた。彼女は私の隣のクラスだった。それでも結構な頻度で昼食を一緒に食べたりしていたが、この縁は卒業後しばらくして切れることになる。
彼女は何か持病を持っているらしかった。それもまあまあ珍しい病気らしく、数少ない同じ闘病している子と友達になって交流を深めているのだとか。
彼女はときどき不意にその類の話をしたが、病名は決して言おうとしなかった。
それは彼氏と家族しか知らないと言っていた。
彼女の家庭は少し特殊で、父親は物心着く前に出て行ってしまい、母親は酒癖が悪く酔うと手をあげるのだという。
それもまあ度がすぎており、彼女と彼女の姉が全力で止めても止まらないレベル。終いには警察のお世話になっていたらしい。
卒業してからのことだが、彼女が夜中3時に不在着信を残していたことがあった。それはまさにその時で、収集がつかなく警察を呼んだのだという。そして翌日姉は母に黙って荷物をまとめ家を出ていった。「あんたも一緒に行く?」と聞いてくれたらしいが、曖昧な返事しかできなかったという。姉はひとりで飛び出していった。
それから母親は姉を探したが、姉は姿を眩まし続けた。もっとも彼女とは連絡をとっていたので彼女は居場所をしっていたらしいが。そんなこんなで、姉は母に黙ったまま親戚の家を転々とした末、大学の寮に入寮。姉はもう帰ってくるつもりがないらしかった。
彼女はよくしゃべるが適当な子であった。「今度遊ぼう」と仕切りに言うくせに全く誘わない。どころか約束しても気分が乗らなかったらドタキャンしたり。私も一度ドタキャンされたことがある。電車に乗る直前だから怒りはしなかったが。
そんな彼女の口癖は「いいやん」であった。やろうとしてること、思うこと、どんな話題でも彼女はすぐ肯定した。曰く、彼女も他の人にそう言ってもらいたいからだそうで、それは確かにと思った。彼女の「いいやん」は私にも感染った。私はよく分からない時はとりあえずその言葉を使うようになった。
彼女はいつも不安定だった。丸くて大きな目は時々光を失ってどこか遠くを見ていた。口は笑っているのに、目は笑っていない。口角が下がると表情が急激に消え失せる時さえあった。沢山いる友達はいくらか彼女の存在の支えになっていたのだと思う。私もその中の1人だったように思う……といえるのは今はそうでないからだ。その話はまた別で。次の大学生編でしよう。
話は戻って、私は高3になって中学から馴染みの子と同じクラスになったのでその子と過ごした。活発で単純な、それでいて少しズレている笑笑、、、でも良い子だった。そんなrちゃんと、rちゃんの友達のkちゃんと3人でいることが多かった。
春先の体育祭でいやーなゴタゴタに巻き込まれたせいでクラスの他のメンツのことは大嫌いになってしまったが、仲にはいい奴もいた。
双子で同じ高校に通っているtくんや、テニス部の優しい…名前忘れた…男くんや、ひょろひょろとスナフキンみたいなtくん。
たまに参考書を貸してもらったり、機会があれば雑談をしたりした。中学のときの男嫌いの具合と比べればほんとに随分マシになったと思う。誰か褒めて欲しい。
つい昨日成人式の前に高校のメンツで同窓会をひないかと連絡が回ってきたがまだ卒業してから3年も経っていないのに正気かと思った。まして高3のメンツなんて、絶対行かない。
性格がキツい子が多かったクラスメイトだったが、良い子もいたのだ。私が大好きだったギャル女子についても書いておこう。
始業式にひとり金髪で現れた「だりん」。彼女のあだ名である。だりんはピアスに赤いリップ、派手な服装と眠そうな表情が特徴で、よく笑う快活な子であった。
クラスの優等生ポジだった私と正反対の彼女。でも化学基礎の移動教室で彼女はわたしをいつも誘ってくれた。
私は彼女の自由で優しいところが好きだった。ピアスもネックレスもよく似合っていたので、時折り褒めたりもした。
「ピアスかわいいね」
「えーありがとう。実はあたしさぁ、金属アレルギーなんよ」
彼女は笑った。そのつけているのは金属ではないのかと聞くと、金属だよと言った。
痒くなるけど付けたいからつけるの、と。
ピアスがうまく付けられないだけで登校する気が失せて欠席するぐらいだから、何も納得できないが「そうなんだ」と言った。彼女らしい、と思った。
奇抜なギャルだったが彼女はとても優しかった。
「なづなちゃん今日元気ない〜、え、ほらキャラメルあげる、食べなー」
私が大学の推薦入試の結果発表を待っている時だった。期末テストも被って精神は最悪だったが、彼女は気にかけてくれてキャラメルをひとつくれたのだ。
たったそれだけなのになんだか無性に嬉しくて私には特別なキャラメルであった。以下は実際に彼女がくれたキャラメルを嬉しさのあまり写したものである。

小さいがたくさん幸せなことがあったように思う。
受験の話も少し書いておこう。
GWあたりから本格的に勉強を始めた私は夏休みは毎日10時間以上勉強し続けた。
このときはもう可笑しかったのでご飯を食べる時間さえ惜しんだ。飯さえ食わなきゃもっと勉強できるのにと思っていた。ワーカーホリックか。
塾には通ってなかったが、学校で講習を受講していた。7限まである授業のあとに1時間半ある講習を受けて帰ったりしていた。それも週に4回とか。今考えるとどこで生活時間を確保していたのか不思議である。
諸事情あって私立に行く余裕は無かったのでいかに低予算で大学に進めるかが私にとって第一優先事項であった。
塾には通わず、自力で勉強したのもそれが理由だ。
そんなことできるのかと高二のときは思っていたけど、当時進路担当だった英語の先生に「あなたは国公立に行った方がいい。少人数教育の方が向いている」と言われたことがある。私が自信をもらって頑張ろうと思ったのはそれがきっかけの一つだ。結果塾なしで頑張れたのだから感謝しなければならない。
第一志望はA判定、そのひとつ上の大学もA、滑り止めも全てAを秋には模試で取っていた。
もともと勉強が好きなトチ狂った人間なので際限なしに勉強を頑張る自分は割と好きだった。
やることがあるというのは良い。何も考えなくて済むからだ。
この頃のお決まりは授業終わりに親友tちゃんを校門まで送り(彼女は塾に通っていたため)、私はそれから校舎に戻って自習していた。束の間の時間だがもう彼女と毎日顔を合わす日はそう残っていないと分かっていたから大事にしていた。
さて、お試しのような気分で申し込んだ推薦入試に結局は本気で挑むことになった。圧迫面接を受けて泣きながら帰ったあの日のことはよく覚えている。全てがどうでも良くなって受験生なのに映画を2時間半も見て帰った。面白かった。
結局その推薦入試で私は第一志望に通った。
「あんたは頑張ってたから神様からのプレゼントだと思うわ」という母の言葉が印象的だった。
受験中は勉強のしすぎで親に心配されていた。ちょっとくらい休んだら?とも言われていた。あまり耳をかさなかったが。
少し早い春休みを心から喜んだ。けれど私は喪失感も覚えていた。
もう一周しようと思っていた参考書たちと別れるのが悲しかった。突然勉強が手から離れていくのが寂しかった。
頭がおかしいと思う人もいるだろう。実際おかしいのでその認識はあっている。私はそのままなぜか勉強を続けた。1ヶ月後のセンター試験まで参考書と別れを惜しんだ。空いた時間は友達の受験対策を手伝った。
問題集をゆずったり、模試の問題を横流ししたり過去問対策を作って手伝った子たちはほとんど第一志望に通って行った。
中でも数学で10点をとって嘆いていたクラスメイトが関西トップレベルの私立に通ったのは感動した。人間ってすげえと思った。
ちなみに最後の学年末テストで私は学年トップだった。推薦入試やセンター対策と並行して勉強していたため期待していなかったが期待以上の出来だったらしい。
肩書き上は首席で卒業したということになる、みたい。今これを書きながら思い出したのであんまり気にしていないけれど。
まあそんなこんなで全員の受験が終わるのを待たず、私たちはそっと高校を後にした。


あとがき

私は高校選びを間違えていなかったのだ。
卒業式の日、何度も乗ったはずの、しかしもう乗ることはないバスに揺られながらそう思った。

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