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それでも今日を生きて行く⑤(玉ねぎフライ編)

 そんなこんなで「明日も来ます!」とか言ってシフト増やしてもらってバイトに励む、働くオバちゃんです。現在は飲食バイトをやっております。接客業、嫌いじゃありません、いや、逆にかなり好きであります。

 昨日はお店が大忙しだったけど、走り回る合間合間にお客さんあちこちに茶々を入れ、「和田さん、和田さん」と可愛がっていただいたり、お客さんが鞄に付けてる怪しげグッズをいきなり握りしめて少々ビビられたりと、いや、それで決してチップなど頂けないのが日本の接客業の哀しきとこだけど、まぁ、それはそれで、そういう交流一つ一つ、その瞬間、瞬間の語らいが楽しいので、これでいいのだ、と働いている。

 とにかく、働けることがありがたい。

 なんちゃって。働いてる瞬間はそんなことこれっぽっちも思わないものの、帰ってきて足やお腹が引きつり痛んだりすると、ああ、健康で働けるのは、それだけで幸せなことなんだと慌てて思って反省する。私も歳だ。いつまでもこんなこと出来るとも限らないんだと。

 それでも私はライターなのだからバイトに精出してばかりしていてもダメなのだとまた思い直し、仕事なくなったら、仕事を作ろう、そうだ、企画書を書こう、営業に行こう、今まで知らない未知の会社へ旅立とう、いざ、いざ、いざ!と考えながら寝たのだが、仕事ない、困った、これからどうしよう?と、周りの人たちに泣いたり叫んだりしてる夢を見て、起きたら汗かいて疲れてた。夢とはなんと正直なものだろう。威勢よく考えてみても、心の奥底の声がにゅろんと出てくる。

 しかし、布団の中でうつらうつら考えた。最初の最初は仕事なんてゼロだったわけだし。湯川さんのところでバイトを始めたものの、「秘書の仕事を覚えなさい」と言われ、ライターなんてのは遠い遠い世界のようだった私。何とかなりたい何とかしたいと思っても、思うばかりで何もせず、気持ちばかり焦ってアップアップしていた。アップアップして、息苦しくてなっては学生時代から飲んでいた「救心」をカプッと飲んだり、掌をこすったり、指を廻したり(指廻し運動って昔流行ってましたよね?)、なのに涙が止まらなくなってポロポロ泣き続けたときもあったりで、湯川さんが「和田が大変なことになった」と何やら療養所の資料など取り寄せ、「ここに行けばどうか?」なんて真剣に言ってきたこともあった。

 湯川さんからしたら、私は取扱いの面倒な子だったに違いない。自意識過剰でヒネクレていて甘ったれ。今の私が当時の私に会ったら、「ちょっと来い」と体育館裏に呼び出すこと必須だ。湯川さんは今も昔も変わらず、感激屋で感動屋、まっすぐ気持ちを表す人だ。根っからのミーハー? すぐ何かにハマッたり好きになったりする。私が働き始めた頃湯川さんはネイルアートに凝ったり、その後はシャーリー・マクレーンの本に凝ったりしていた。とにかく、すぐ夢中になる。今思えばそういうところ、私もすごく似てるのに、当時はそうは気づかず、そんな湯川さんを見て、薄ら笑いを浮かべるような奴だった。上司に対してその態度! すごいね、私。ある意味、度胸あるわ、うん。

 そんな私をしかし、湯川さんはクビにしたりすることなく雇い続けた。あまつさえ時々服を買ってくれたり、おいしいものを食べさせてくれたり。
「えっ? おまえ、恵まれてんじゃん!?」
 ええ、ええ、そうなんですよ、私、けっこう恵まれてたんですよ。
「なんだよ、同情して損したわっ!」
 す、すみません、ええ。そうなんです。はい。

 そういえば、何度か、ご飯というか、おつまみというか、おかずというか、作ってもらったこともある。あるとき、夜遅く、ああ、湯川さんは寂しがり屋だから、誰も家にいないとき「今夜誰もいないから、家に泊って」とか言うことがあったんだけど、お手伝いさんも帰ってしまった夜遅くに、に、いきなり玉ねぎのフライとか作ってくれて、それがとても美味しかったことを覚えてる。何十年たった今も覚えてんだから、相当に美味しかったんだろうな。あと、冷汁だな。キュウリとかアジの焼いたの?とかが入ってる冷汁を湯川さんが作ったのが美味しくて、私が「美味しい美味しい」いうので、これは何度も作ってくれた。

 そんなときに「和田は料理が苦手です」とか言うと、「料理はセンスよ。センスがない人は作れないのよ」なんてバッサリ私を切り捨てるところもまた湯川さんだった。
 今でこそ優しいオバちゃんキャラでツイッターなどを楽しんでる様子の湯川さんだが、若い頃の原稿など読むと、そりゃ辛辣で、ズバズバ物を言い、最高に切れ味鋭かった。彼女が20代でジャズ評論家としてデビューして、瞬く間にマスコミのスターになったのは何も美人だから、だけだったんじゃない。昔のTV番組に出ていた彼女を覚えてる人に言わせると、TVなんかでもズバズバ物を言ってて「意地悪っぷりが面白かった」そうだ。

 でも、その辛辣さをだいぶ叩かれたようで、インタビューなんかで「私、物言いがキツいって言われちゃうんです、どうしましょう?」なんて言って頬染めてる、みたいなのがあって、頬染めながらも、自分じゃそう思っちゃなかったというか、え?私のどこが?みたいな、いや、分かっているけどとりあえず、そう言っておこうというか。
  元々「戦争中の海軍エリート一族のお嬢様」の湯川さん。叔父さんはあの山本五十六で、祖母の弟は海軍大将(黒井悌治郎という人)だ。当時の海軍って「日本のトップ・エリートだよ」ってのは、湯川さんの評伝を書いたときに、週刊朝日の担当者さんが言ってた。

 想像する。お金持ちの、米沢藩の家老の家柄みたいな家の、日本の中枢の一族の末っ子娘。美人で利発で物怖じしない。何を言っても「あはははは、和子(本名)は面白いなぁ」と言われて育ったら? いや、もう、そうなるよね。うん。

 私が湯川さんの所で働き始めた頃、彼女はまだ40代。まだまだその片鱗は十分残っていた。舌鋒鋭く自信みなぎるオバさんと、自分に全く自信のない、何者でもないくせ自意識だけは過剰でヒネくれた甘えん坊の20歳そこそこの私。めちゃくちゃ凸凹コンビで正反対だったし、若い私はそういうところにカチンッときてたのも事実だ。

 でも、湯川さんは言いたいことを言ってるようで、実は一番大切なことは中々言い出せないんじゃないか?と今も、その頃も思っていた。それは家族とのやりとりとか、仕事の人とのやりとりを側で聞いていて、そう思った。
 そして逆に私は何も言えないような顔して、実はなんでも言ってしまう人間だとも知っていた。そのときは知らん顔をしているくせに、こうして書いてしまったりする。
 私たちは正反対凸凹ぶりが時に180度回転する2人なのだ。だから、どんなにカチンッときても、後になると、なんとなく流れていった。

 そんな毎日を過ごすうちに、私はこの毎日の生活のことを書こう!と思った。まぁ、友達に電話して、あれこれ報告していたら、電話代が目茶高くなってしまったから、というのもあるのだが。
 日々人に会い、色々なことを目にすると、さまざま頭によぎることがあり、頭が爆発しそうになって、それを書こうと思って、唐突に「和田ちゃんの本だよ!」という一人ミニコミ(?)を始める。
 A4の用紙に文章と下手な絵を描いて、、、それは明らかに沢野ひとしさんの物真似だったんだが、それを書いてはコピーし、ホチキスで束ね、色々な人に無理やり送り付けた。思えば、それが、私が本当に書き始めた最初だった。誰にも何も頼まれもしないけど、私は勝手にライターになった。

 なんだ、今と同じじゃん! 今こうしてnoteを書いて、無理やり読んで~読んで~言ってるのと全く変わらない。成長してないのである。

 

   

 

 

 

 

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