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それでも今日を生きていく④

 昨晩(8月8日の夜)ふと、「そうか、今日はオトンの誕生日だ」と思い出した。昭和8年の生まれだから、生きていれば85歳になってるはずだ。もう亡くなったの? いやいや、よく分からないのだ。生きてるのか死んでるのか。もう、十年以上会ったことがないし、最後に会ったときも2~3分話して、こらえ性のない私は腹を立ててすぐ席を立ってしまった。どうにもこうにも父とは気が合わなくて、上手く話が出来ず、今に至る。ときどき母や姉の元には電話があったりしていたらしいのだが、それも金の無心であったりで、母や姉も腹立てて「ブチッと切ってやった」とか言う。一度、「ガンになった」とか電話があったらしく、そのときは可愛そうだなぁと思ったけど、でも、それでなんとかしようとか思わなかった私は薄情な娘です。

 家族だからって縁があるとか絆があるとか、そうは思わない。18歳で家を出た私は、考えたら母親とだって一年に数回しか会わず、今後何日一緒に過ごすのだろうか?ぐらいなものだ。母にはそれでも何くれと手かけ、金かけするが、父には申し訳ない、手が回りません、というのが正直なところだ。

 それに比べたら、湯川さんとは家族ではないのに縁があるのだな、と思う。20歳から26歳まで6年半、毎日一緒に居て、その後も何やかにやと時間を過ごし、色々な話もしてきた。家族ではないのに、家族以上につながりがある。でも、実際に毎日を過ごしていた6年半の間はそんな風に思ってはいなかった。正直こんなことを書き始めたものの、あの6年半、私は湯川さんを好いてはなかったんじゃないか?と今さら思い出した。いや、そうでもないかな? 好きとか嫌いとかじゃなくて、それも越えて、否応なしにそこにいる人で、それが当たり前の人で。いなかったら困る人で。ああ、そういう意味では6年半、私は彼女の家族だったのかもしれない。

  でも、彼女には本当の家族がいることが、入ったその日に分かった。夫と、小学生の息子がいた。息子はインターナショナル・スクールに通っていたので、そのとき何年生だったとか、はっきり覚えていない。夫はその後、浮気したり借金したりして離婚するドイヒーなことすべて湯川さん御自らの手で(笑)暴露されちゃってるから今ならもう言っていいだろうけど、まぁ、これがこれが、すぐにカッとしちゃう、今なら「パワハラ」「モラハラ」タイプの人で、DVではなかったようだけど、精神的には湯川さんにDVしていたようにしか私には見えなくて、なんてひどい人だ、大嫌い!と思って、20歳の私はそのまんま態度に表していた。まぁ、今も、大嫌い!と思う人がいると、そのまんま態度に表しますけどね、ええ。忖度なんて、できません、わて。

 息子は息子で大した甘えん坊な子で、忙しいお母さんに甘えられないと、ドアをバ~ンと閉めて、何やら英語でわめきたてては二階の自分の部屋に駆け上って行くという日々で、やれやれけたたましい。しかし、この子はこの子で可愛そうな子だなぁと思って見ていた。
 息子がお母さん(湯川さん)にあれこれ学校であったこととかくっちゃべり、でも、お母さんは原稿書きやらに忙しくて、適当な相づちぐらいしか打たなくってろくに聞いてないのが分かると、声がどんどんイライラして「もう、いいよっ!」となる。そしてドアバ~ンの儀式へとつながるわけだが、その度に私は、あああ、お母さん、少しは聞いてあげればいいのに? 仕事なんてちょっと手ゆるめてさ、息子に「なあに?」って言ってあげればいいのに、冷たいお母さん、なんて思ってた。

 冷たいお母さんなのに、雑誌やTVの取材がくれば「母、妻、仕事の3役をこなす湯川さん」というのを演じてニッコリ笑う湯川さんを見て、なんでこんな嘘ついてんだろ?なんて、カリカリしてた。

 間違ってますね、私。ええ。全然ガキっすね、私。ええ。やるべきこと、あったろ?ですね、ええ。

 ドアバ~ンの息子には「じゃ、下に(坂を下ったところに商店街があった)駄菓子買いに行こうぜ」って誘って、湯川さんから2~300円もらって駄菓子屋にでも連れて行き、クジでも引かせ、ガチャガチャでもやって、そこに集まるガキんちょらとダベり、つるみ、そのうち、息子だけ置いて私はもぐもぐ駄菓子のチョコレートでも食いながら戻ってくりゃ良かったんだ。ほんの2~30分のことだろうに。
 息子は、そりゃまぁ、親は良かれと思ったのかもしれないけど、校区外のインターナショナルなんてところに行かされて、地域に同じ年頃の友達がいなかった。それは寂しいよね、外でみんなで野球でもして遊ぶとかできなくて、持て余すよね、エネルギーをさ。だから、私こそ仕事の手を休めて、ちょっと外に出してやればよかったなぁと、今なら思う。今なら分かる。
 息子は人付き合いの得意な方じゃなかったと思う。得意なら、学校は違っても、自分で外に出て、そこいらの子たちに混じれたろう。でも、そうできないから、エネルギーをこじらせまくって、いつもイライラして、人に当たりちらしまくっていた。たまに近所の幼稚園ぐらいの小さな子たちを家に集めて大騒ぎをしてることもあったけど、そういうときには自分を大きく見せようと空威張りする姿が痛々しかった。
 私は彼にとって一番年の近い大人だったんだから、もうちょっと頭使えば良かったなぁと思う。ごめんよ、息子。君も今は大人だ。今はどうしているんだろう?

 湯川さんはでも、一体どうしたかったんだろう?と思うと、本当に「良き妻であり母であり仕事人であり」というのを目指していたんだろうなぁと思う。そんなの無理なのに! そんなの無理なのに、30年前はメディアはそういう働くパーフェクトな女性像を求めたし(今だって求めるし)、私も湯川さんの忙しさを目の前で見ながら「もっと子供に優しくしろ」とか、「仕事ばかりしないで子育てしろ」とか陰で言ってた。ひでぇ~な~。そして誰より湯川さん自身がその呪縛に縛られ、もちろんお手伝いさんはいたし、私たちアシスタントもいたわけだから、家事労働などからは解放されていたけど、気持ちは全然解放されてなくて、いつもいい母、いい妻の呪縛にがんじがらめになっていたように思う。

 そりゃもちろん、本当に家族を大切に思い、愛していたのだろうけど、呪縛が彼女をがんじがらめにして、家族と彼女の関わりはどこかギクシャクし、必死に見えた。思えば私がアシスタントになった20歳のとき、湯川さんは今の私より若かった。

  今なら「湯川さん、あんた、そんなに才能あって、そげに仕事して金稼いでんだから、それ以上、家族に与えるものなんていらんで。家族もな、よ~く聞け。この人は人の何倍も働いてるし、才能あんだから、それを世に花開かせるために協力せよ。わぁ~ったな?」というだろう、誰より当時の自分に。
 その後、私は湯川さんの評伝を書いて、彼女がどれだけこの仕事をすることに必死だったか、どれだけ人生すべて懸けていたかを知るけど、それはもうずっと後のことだ。

 家族って難しい。私が今も父と話もできなくて、生きてるのかどうも確かめられないように、私がバイトしていたその家もまた、みんなと同じように家族が難しかった。 

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