最近のこと

こういうブログのタイトルのときってわりと重要な報告やニュースがあったりするものだけど、何もない。

なんか昨日ふと、書きたいなあと思ったので、いつも通り17時半に勤務を終え、スタバで準備万端、こうしてPCに向かっている。

会社の先輩でfacebookにエッセイを定期的に寄稿している人がいて、その人に影響を受けたのかもしれない。何を書くかも特に決めてない。


さて、会社に入って2か月がたったが、はっきりいってまだお客さんの気分だ。。配属は決まったが、退社は相変わらず17時半。仕事は任せてもらえるが、アウトプットをそこまで期待されていない。責任のある仕事はない。大企業ゆえなのか、専門性が高い仕事ゆえなのか。ヒリヒリするような気持ちになったことが、まだない。

まあそれはそれで仕方ないことなのだが、そんな環境で、愚かにも慢心という気持ちが生まれているのである。ふと慢心している自分に気がついて、びっくりする。あほだ。この慢心は一体どこから湧いてくるのか。

それは、同期との比較からである。

同期の間での比較に意味などないし、そもそも配属される場所が違うから比較などしようもないのに、たぶん自分が一番良いインプットができている、たぶん自分が一番仕事内容を理解できている、などとまったくもって無意味な指標を自分で作り出し、勝手に慢心しているのだ。競争することはいいことだが、自分を安心させるための比較に価値はない。

そんな調子だから、ほかの同期がいい仕事を任されていたり、いい経験をさせてもらっているのを見ると、不愉快な気持ちになる。あほか。

自分が大事すぎるんだと思う。全部自分中心。その一方、人に優しくしたい欲もあるので、日々戦いである。親切にしたい欲と、周りと差をつけたい欲。この二つの欲が戦いを繰り返しながら、同期に親切したり、自分が上だと思い込んで安心したりしているのである。やべえやつだな。

でもまあきっと、人ってみんなそんなもんなのかなとも思う。


これと似たようなことでこの前、自分の愚かさに泣いた。

「自利利他円満」「大欲得清浄」

この二つは、僕が好きな仏教の言葉だ。

「自利利他円満」は、「仏教は利他の精神を持つことを説いているが、利他の心はまず自分に向けてあげましょうね。自利 すなわち自分の心も満たして初めて、円満な関係が築けますよ」という教えのこと。

他者のため他者のためと必死に慈悲の心を持とうとしていても、まず自分への慈悲の心を向けられないと、苦しいばかりだと。よくコップで例えられるけど、まずは自分のコップを幸せで満たしてあげる。そして溢れた分を、ほかの人に向けてあげるというのが、正しいやり方だと。それが自利利他円満という言葉。

去年、書初めで「慈悲」という言葉を書いた。それを部屋に貼って、一年の目標にしていたのだが、目標を満たす心を持てず、自分へのいら立ちが募っていた。そんなある日、知り合いのお坊さんに、先に述べたコップの話をしてもらった。「ああ、まず自分に慈悲の心向けてあげないとダメなんだ」とハッとした。以来、この言葉が好きで、心にとどめている。

「大欲得清浄」は、大きな欲は清浄であるということを意味する。小欲=自分のための欲望は捨てるべきだが、大きな欲=社会のためになる欲望は肯定されるものだということだ。全ての欲を捨てなきゃいけないわけではなくて、社会を見据えた大きな欲を持ちましょうねという教えである。

この二つの言葉を気に入っているのは、どちらも「欲を捨てなさい」と俗世離れしたことを言うのではなく、ダメな人間にも寄り添い、欲とのよい向き合い方を示してくれているところだ。この言葉を聞くと、今の自分もちょっと肯定できる気持ちになる。

...のだが、先日、この教えが自分をくそ野郎にしていたことに気づいた。

もちろん、教えが間違っているのではなく、自分の解釈が悪かったという話だ。

利他の心を最も向けたいんだけども、同時にそれを最も求めてしまう、そんな厄介な存在がいる。恋人だ。

ああしてあげたい、こうしてあげたい という利他の気持ちは一番湧きやすく、赤の他人に向けるよりはよっぽど簡単だ。その一方で、ああしてほしい、こうしてほしいという欲求も無限に湧いてくるのだ。

僕は最近、この二つの気持ちが自分の中でぶつかって、後者のほうが勝ってしまっていた。「向こうが〇〇してくれないから、こちらも〇〇しない」という感じだ。一度こうなってしまうと泥沼だ。何をするにも不満がたまる。

そしてこれは、相手にも伝搬する。

僕「〇〇してくれないから〇〇しない」→相手「〇〇してくれないから〇〇しない」→僕「〇〇してくれないから〇〇しない」・・・

と負のスパイラルだ。

このスパイラルは自分でも無自覚のうちにぐるぐると回っていき、ふとしたときに、「あれ、関係性おかしくない?」と気づく。

それで大ゲンカした。詳細は書きたくないので書かないが、彼女に本質的なことをズバズバと言われ、僕が自分のことばっかりで、相手に全然心を向けられていなかったことに気づいた。加えて、相手が自分に心を向け続けてくれていたということにも。

どうやら「自利利他円満」という言葉を「まず自分が満たされてから」というふうに曲解していたらしい。

自利と利他は別のものではなく、一体のものなんだと思う。自分にとっての利が、相手にとっての利になる。これが自利利他円満だということだ。コップのたとえで、まず自分のコップを幸せで満たすというが、それは自分があちこちから取ってくるようなものではなくて、他者との関わりの中で、少しずつ満たし満たされていくようなものなのだ。これが基本なんだと思う。

そうして自分のコップが満ちていき、溢れた力を大欲=社会のために使っていく。そして社会のためにやったことが、また自分のコップを満たすことになり、それをまた社会のために使っていく。この繰り返しこそ、仏教的な生き方なのかなと思った。

自分には、一番近くに、心のコップを満たしてくれる相手がいる。なんとありがたいことかと思った。

実は昨日、1年と半年の記念日だったのだが、そんなタイミングでこのことに気づけたので、この区切りで心機一転、もっと良い関係を築いていきたいねという話をした。

なんだ、簡単じゃん。

彼女だけじゃない、会社の同期も、先輩も、みんなにちゃんと心を向けたらいいんだ。

その結果として、自分も満たされていくんだと思う。



といい感じで、いい時間になってきた。今日は22時から日本代表戦だ。

本当は書きたかったのは他にもっといっぱいあって、縄文時代についてとか、サッカー日本代表批判についてとか、今読んでる「星の王子様、禅を語る」という本についてとかだったんだけど、まあいいや。

適当に書く楽しさ再発見したので、すぐまた書くだろ。

おわり

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