果ノ子

文章は自分のためのもの。薄皮を作る文章目指して。2019.1月 77ノートぐらい。そろ…

果ノ子

文章は自分のためのもの。薄皮を作る文章目指して。2019.1月 77ノートぐらい。そろそろ皮を着始めよう。

マガジン

  • わたしが自死に持つ当事者性

    そろそろ兄弟の自死についてちゃんと描こうかなーと思いつつ(私のためというよりは同じ経験をして残っただれかにとどけばと)、とりあえず、成分があるものをぶっこんだだけマガジン。

  • 産まれられなかった弟が生まれた意味を

    弟は私が7歳の時にいた。死産だった。生まれたけど、産まれられなかった弟の命。そのお姉ちゃんとして、子供の時から家を出るまでの私の記憶の記録。 悲しいだけを残した命は、生まれない方がよかったか。9回分。全体で13000字くらい。*記事まとめてひとつになりました。

  • 割と気楽記事。

    文章を書いていて、書きたい文章の深さにムラがあるので分類分け。明るいかはあれだけど、暗くはならない。より深いのは別マガジン。

  • 当事者と支援者の境い目。

    当事者と支援者の境い目だなーと思っている記事たち。どっちでもあり、どっちでもないみたいな。でもどっちも私。昇華途中。

  • 深めの記事。

    悩ましいもの。実直に深め。親子関係。機能不全家族。人生の話。命の話。憎しみと前向きと。痛みはある話。私の感性の話。

最近の記事

  • 固定された記事

記事一覧

記事の整理をしているので、非公開になっているのもあります。悪しからず。 noteはスクロールしないと過去の記事が見れないので、面倒な人のための過去記事目録+メモです。適宜更新します。    果ノ子 (上が新しいもの。リンクだめだったりしたらおしらせください) わたしの薄皮を 2018/11/08 23:30 加害者に足りうる私を選ぶということ 2018/10/24 15:09ー長い。医療の侵襲性を語りながら。わたしは結局強者であるんだよなっていうのを自分に染み込ませる

    • 知りたくなどなかった、愛しい喜怒哀楽たちへ

      拝啓  私の愛しい喜怒哀楽たちへ はじめに正直に書きます。書いてしまいます。 言わないできたので、ここでくらい書かせてください。 わたしはあなたたちに出会いたくなんてなかったです。 貴方達に出会わなければと心の中で何回だって思ってきました。 経験したくなどなかった物事で出会った貴方達。 貴方達と、私は出会いたくなかった。 近しいものになりたくなかった。 強い悲しみ・憎しみ、絶望感、無力感。 貴方達がこの世に存在するなんて知りたくもなかった。 そういうのは物語の中の話で

      • 生まれて産まれてない弟と、お姉ちゃんのわたし

        20数年前。弟の誕生とそしてお別れがあった。 私が、小学2年生の時。死産だった。幼かった私は弟と対面することはなかった。生まれて死んだこと。そこにいたことを、周りに公にされることもなく、ひっそりとあったそういう命。 いたのかもわからないような、そういう弟。 それでも私はずっと思っている。私はお姉ちゃんだ、と。 私は彼の姿を見たことはない。そして彼の存在は周りに認識されていない。なのにこの感覚を持っていることは、なんだがどうなのだろうと思うこともあったのだけど。 でも私

        • 野の医者の子供たちは笑えるか

          『野の医者は笑う』を読んで生じた、ざわざわぐるぐる 臨床心理学者の東畑開人さん。彼の著書、『野の医者は笑う』を読んだ。 ヒーリング、スピリチュアル、セラピー、その他怪しい治療の諸々。精神医学・臨床心理学とは異なる心の治療が、世の中にはたくさんある。 彼は著書の中で、その治療をする人たちを『野の医者』と呼ぶ。 怪しさを含む、それらの治療。 それを「怪しすぎて良いではないか!」とワクワクしながら、フィールドワークを通して、野の医者とは、その治療とは何かを問うのがこの本だ。 ま

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        マガジン

        • わたしが自死に持つ当事者性
          10本
        • 産まれられなかった弟が生まれた意味を
          10本
        • 割と気楽記事。
          44本
        • 当事者と支援者の境い目。
          6本
        • 深めの記事。
          28本

        記事

          ヒビ割れグラス

          「子供なんて産まなきゃよかった」 そう母から言われたことがある。もう10数年以上前のことであるが、そのときのことは濃厚に覚えている。 あれは、雷に打たれたというか、強烈なビンタを食らったみたいな。そういう体験だった。 何か悪い事をした時に相手からビンタされる。 ということが、まあビンタされる時の普通だと思う。 ただ漫画やドラマの世界では、落し物を渡すために声をかけたら、とか。その人のために選んだ誕生日プレゼントを渡す時に、とか。予想だにせず不条理にもらう、そういうビンタも

          ヒビ割れグラス

          complicated birthday.(複雑な誕生日)

          誕生日。 その幸せなお祝いの日に、happyという形容詞をなんだかうまくつけられなくなった。それはいつからなのだろう。 たぶん本当は子供のころからそうだった。 でも、その日は子供の私にとっても同じく子供の友達からしても、誕生日というのはハッピーバースデーという日だった。 それはhappy birthdayとしてあった。 そうありたいと思ったし、そうであってほしいと願っていた。 happyに込められた、「しあわせな・嬉しい・幸福な・祝福された」 そういう一つ一つと、私の

          complicated birthday.(複雑な誕生日)

          分類するということ

          分類すること。 あるべきものをあるべき場所に置くこと。要は整理整頓。 そういうことだけで、物事は大きく変わったり 付加価値がついたりする。そう思う。 わかりやすいところだと、ビーチコーミング。 砂の中に埋もれたガラス片を集めれば、それを使ってアート作品ができたりする。 流木を集めれば、アクアリウムが趣味の人に売れたりする。 砂つぶだって種類ごとに集めたら、地質を示す標本が出来上がる。 誰かが集めて。 集まったところに、集まったものに、 人々は集まってくる。 集まった

          分類するということ

          「人」というものは見えない方がいいのかも

          前回、「人が居るということ」という記事を書いた。 その時の気持ちの方向性は 人がいることを、わすれないようにしなきゃねぇという方向性だったと思う。 ただ、ここ数日お茶をしながら、ZOZO関係のニュースとか見ながら思う。 あー、なるほど。 何かを売りたいなら 何かになりたいなら、 何かを作りたいなら その「人」というものは見えない方がいいのかもしれないな。 そんなふうに思った。 例えば物語で一つの文章に感銘を受け、大好きで大好きで仕方なかった時に 著者近影を見て、な

          「人」というものは見えない方がいいのかも

          人が居る、ということ

          私たちは、とかく「そこに居るのは人である」を忘れがちだなあと思う。 システムの裏には人がいる。 私たちが相、対しているのは人である。 人はいろんなものをシステム化することで、 無機質化して「人同士の接触」をなくすことで 何かに集中するための時間を作り、気をすり減らすことを減らし、 発達したり、効率化をあげたりしてきているけれど。 そういっても。 ちゃんと扉を叩いて、やりとりをしていけば そこにいるのは人である。 なんてことを、最近メルカリを使い始めて思った。

          人が居る、ということ

          日記1

          今日は6時半に起きた。隣の部屋のソファベッドにはAが寝てる。 人がいる気配の中、眠りにつくのは久しぶりで、夜中に何度かもう朝かな?と目を覚ました。 起き上がって、まだ寝ているAを見て、改めてAにベッドを使って貰えばよかったと思う。ソファで丸まって寝ているのはやはり狭そうだ。 次の機会があったらそうしよう。 そのまま、そっとシャワーを浴びて、家仕事をした。Aを起こす時間としてはまだ早い。自分以外の人がいると、水場の扱いや衛生観念にいつもより気を使うなと思いながら、昨日飲んだグ

          何かあった出来事の後の憂鬱さの、その灰と。

          胸にぎゅっとくることがあった後。 それでなんだか憂鬱な気分が続いていたりするその感じ。 気分が浮き沈みする、あの感覚。 私は、それを人にうまく伝えられないなと思う。 と言っても、出来事とその出来事の時の感情は話せる。 ただ、その後に生じて、今日まで感じている憂鬱さ・その感情を伝えるのが、ひどく下手だと感じる。 * そういう何か出来事があった後、友達に会う予定があれば、当たり前のように近況の話になる。その時に、嫌なことがあったのよって、その出来事の話はできていると思う。

          何かあった出来事の後の憂鬱さの、その灰と。

          わたしの薄皮を

          ここ最近考えていること。 それは「わたしの薄皮」について。 「薄皮」 それはツイッターのタイムラインに流れてきた、東畑開人さん(心理学者)のネットのエッセイの中に書かれていた。 そう、薄皮一枚って、本当に大事なのだ。  私たちの生きている世界は、自分を偽らないこと、「ありのままの私」であること、自然体であることが良きことで、仮面をかぶらず、素顔のままでいることが推奨されがちだ。  自己啓発本なんか読むと、自分の中に潜んでいる「本当の私」を発見して、本当にやりたいことに正直

          わたしの薄皮を

          加害者に足りうる私を選ぶということ

          前々前回ぐらいのノートに 「ちゃんと大人になったのだから能動的な加害者になるのだ。」と、書いた。 それは感覚的な言葉で、気持ちに合うけど、なんだ?加害者…?というかんじ。 当時はそれ以上の言葉がなかった。 そのノートを書いてからしばらく、なんだかあまり書き物をする気分がしなくてそんなに物を書かずにきた。 色々思いつつ、生活しつつ 人の加害性ってなんだろうなーということについて 時折思い出しながら過ごす。 * だいぶ話は違うけど、医療というのは侵襲性を持つ行為である。

          加害者に足りうる私を選ぶということ

          掌握小説

          (リュックサックは背負いやすいものの方がいい) 暗がりの中ベッドに寝転んで、スマホの画面をスライドさせる。ツイッターに流れている文字列を目で追っていながら、そう思う。 そういえば、絆創膏を買おうと思って、買っていなかった。リュックのポケットにあるといいかもと入れたお札も、そういえばこの前使ってしまった。ゆっくり身を起こして、手を伸ばしてベッドの足元に置いてある赤いリュックを、こちらに寄せる。 軽々とは持ち上がらないくらいには、それは重い。 確かに、長時間背負うことを思え

          掌握小説

          自分のこえを、やっと好きになりはじめた

          はじめて自分の声を好きじゃないと思ったのは、そういえばいつの頃だっただろう。 定番ではあるが、小学生低学年のカセットで録音した声というのを初めて聞いた時か。 それとも音楽の授業で、女の子たちが歌える歌を地声で歌えず、恥ずかしかった時か。 私の声は女にしては低い。 オーケストラでソロパートが始まった時に その音色がはっきり届くものと、一瞬どこから鳴っているか迷う、そういう楽器があるが、 その後者だと思う。 私の声は、 ちょうど雑音に紛れやすい音程で、声質だ。

          自分のこえを、やっと好きになりはじめた

          悲しみのない世界を望む人に聞きたくて

          悲しみについて考えるとき、昔のことを一つ思い出す。 悲しみがない世界を望む、大人たちについて。 子供の頃、信念を持つ大人たちが、笑顔で語るのを聞いていた。 「神様によって悲しみのない世界がきます。それは素晴らしいことだ」って。 それを聴きながら子供の私は少し考えていた。 「悲しみのない世界ってそんなにいいものなのだろうか」って。 だって私には 悲しみがない世界も、悲しみがない私も想像できなかった。 当時中学生になる頃の私ですら、 私の一部は悲しいことで成り立っ

          悲しみのない世界を望む人に聞きたくて