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何かあった出来事の後の憂鬱さの、その灰と。

胸にぎゅっとくることがあった後。
それでなんだか憂鬱な気分が続いていたりするその感じ。
気分が浮き沈みする、あの感覚。

私は、それを人にうまく伝えられないなと思う。

と言っても、出来事とその出来事の時の感情は話せる。
ただ、その後に生じて、今日まで感じている憂鬱さ・その感情を伝えるのが、ひどく下手だと感じる。

そういう何か出来事があった後、友達に会う予定があれば、当たり前のように近況の話になる。その時に、嫌なことがあったのよって、その出来事の話はできていると思う。そうして、その出来事の、そのセンセーショナルさやニュースさを話したりして、それで友達が「それ最低だよね」とうなづいて。ほんとないよね、みたいに返して。
その出来事の時の怒りや悲しさはそれなりに話せる。愚痴れる。

けど、一連の事件のあらましについて話してしまえば、んじゃ次に繋げる解決策とか、以前にもあったその嫌な事件と似たり寄ったりの話を始めたりして。
もしくは、相手側の似た愚痴を聞いたりとか話が発展して。

最終的には、もう、飲もう飲もう!!!という流れになっていく。


それは悪いことじゃない。けど。



そういうのをしたいのは、もちろんあるけど。
くわーっと呑んでね。頑張ろうって言って、その時間は楽しいものだけど。

そうして表面上は元気になるのだけど。


話せてスッキリするのだけど。


けれど、家に帰ると、ふと思う。
ふと、憂鬱さが戻る。
なんだか話しきれなかったと思う。


きっと、わたしが本当に話したかったのは、その出来事とその時の感情だけじゃなくて、その後の私が揺れて弱った感情や、そのことで滅入る私自身のあり様だった。そういうことを、毎回ぼんやりと思うのだ。


私の本心はそっちを聞いてほしいと思っていた、ということ。
それを酔いが冷めた後に、なんとなく気づきながら、眠る。


けれどその、憂鬱の有り様は、不思議なもので。
約束の時間に友達に会うまで、薄ぼんやりと私の気持ちを憂鬱にさせていたとしても。会うとなった友達の姿が見えると、四散するかのように居なくなる。
飲んで話している時の私も、その出来事を話している時でさえ、そのことはなんだか忘れてしまう。

それは、なんでだろうと考えれば。
きっと、子供の頃からの処世術かもしれないなと感じる。
子供ながらに嫌なことがあった時、友達と遊んでるときぐらいは大変なことを忘れたい。一人になればどうせ考えるのだから、と。
そう考えて楽しんで遊んでいた、そういうところから来るのかもしれない。

そして、それは看護師という仕事をして得た、何があっても(患者さんが亡くなっても、横で亡くなろうとしている人がいても)、今日出会う患者さんにはそんなことを気取られずに過ごすという姿勢によって表に出て来にくくなり、問題解決型の思考の強化によって、優先順位を下げられて来たのだろう。

それに、私自身が言葉下手なのもある。
出来事を話すことに夢中になっていると、そこを話し終わった時点でどうしてもやり遂げた感を持ってしまって。そういう私の単純な面や、憂鬱さよりもエピソードや話の肝としては盛り上がる、その出来事自体に話が持っていかれてしまい、憂鬱だった私は置いていかれるのだ。


本当に話したかったのには、知って欲しかったのは。
その虚しさや憂鬱さだったのに。


できたら忘れたい。

そう思っている部分も相乗効果で、話したかった気がするのに忘れられてしまう、私自身の思い。

そうして、いっときは忘れても、身には残るその感覚がくすぶって。
一人になれば思い出す。


そうして悪いことに。

出来事自体は話して、解消してしまったゆえに
その後、話す機会すらなくして。
感覚だけが残り、積もる。

その話す理由すらつけられなくなった憂鬱さが、時期を逸脱した虚しさや苦しみが、私を含めて大人の、苦しみの大きなところなのではないか、だなんて、思ったりする。


そもそもだ。

大人になって、憂鬱さを理由に人に会う時間が減ってきた。

それぞれの人生を生き、それぞれの今を過ごしている友達とは、会うのは楽しい時間が多い。憂鬱だから人と話したいで、話せる人はだんだん減ってくる。

仕事の愚痴は話せるのは、仕事の友達だけど。
結婚した友達とはなんとなく、持っている「孤独」については共有しにくい。
人生に誰しもが迷ってた学生時代みたく、人生を語れる友達を大人になって作るのは結構難しい。

そもそも、人と会うなら楽しく過ごしたい。



んじゃ、このチリも積もった憂鬱さをどうしようかな、と思いながら、今文章をのらりくらりと書いている。

重くはないけれど、灰みたく、私のそばに残っているもの。燃えかすの残り。けれど、足取りを重くするものをどう扱うといいのだろう、と考えている。

慣れてしまった、憂鬱さ。
けれど、楽しさだけでは吹きとばせずにあるものたち。


楽しさの量を増やそうか。

でも、きっと同じ結果だなろうなって思ったりする。


うーん。


ひとまず「灰がある」というところを認識したところでよしとする…と言うよりは
「実はね、灰があったんですよ」って言う・語るそのことをやってみようと言うところからだなって。

出来事ではなく。
私はどう落ち込み、どう過ごしたのか、どう迷っているのか、そっちを言葉にできるように。

飲み会には参加できるから、元気ではあります。じゃダメだなあと、考えながら。

なんだか答えが出なそうなので。

ひとまず、了。


果ノ子


(「私落ち込んでるの」で語りがうまい知り合いがいればいいんだけど、あまり浮かばないな。感情、わーって勢いで出せる子は羨ましくいつも思うけど、そうはなれないしな。)
(多分「どうしたらいいか、わからない」って言うのが苦手だ。人生に対して。言えば、ほら見なさいと言われる、否定されるみたいな恐怖感がある。それかもしれないなー、いろんな人に「どうしたらいいか、わからない、どうしたらいいと思う?」って聞いてみると言うことがきっとできればもっと違う。)
(恐怖との対峙は必要。)

(そういえば、怖いものの話を文章にしたことないから、どっかで書いてみよう。)

そして、前回記事でnoteのカテゴリーのことすごく書いたけど、あの日だけでその後は定期的に更新されている…?イマイチわかんないな。ひとまず、書き場として引き続き使わせてはいただこう。

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