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切り花が苦手だった

水差しに差していた、花が枯れた。

しおれ始めから「ああ、そろそろおしまいかな」と、
そう思うまでの間は、ほんとうあっという間だ。

むかし、
お花屋さんで鮮やかに咲いている、切花が苦手だった。

だって、もう「それらは切られてしまっている」から。

地面から切り離され、彼らの鮮やかさの後ろには、
腐るか枯れるかの未来しかない。


もし買って帰ったら、
私は綺麗なこの子たちの腐る様を見ないといけない。


咲き切った、命が尽きた彼らを
燃えるゴミに出すか、そんなに興味はないのにドライフラワーにするか
そういうことしか私はできないのだ。

そういうことを、めいいっぱいに咲いている彼らの
その後ろに見てしまう。なんとなく後ろめたい。

だから切り花は苦手だった。


この花が、
野に咲く花から、私自身でちょっとだけ拝借したのなら
まだ地面に残っているその草自身を愛でたり、
種を飛ばしてみたりできるけど。

どこからきたかもわからない花に
私は感謝も伝えられないし、
庭も持たない私は、なすすでもなく
彼らを人工物と同じくして燃えるゴミに出す他にはない。


私たちが愛でるために切り取られたその時から
命のカウントダウンが始まっているような、
そういうのを感じて。

その明確さゆえに、
その刈り取られる理由が、綺麗だからという人の欲ゆえに
私は動物や虫よりも、
切られた植物の扱いが苦手だと思った。


だから、花屋の花を買うという行為をあんまりしたことはなかった。


そんなわたしが、切り花と距離が近くなったのは
近しい人のお葬式からだと思う。

私たちは、故人と一緒に燃えてあげることはできない。

でも、せめて綺麗なものに囲ませてあげたい。
そうやって花を選んだ。

大叔父が亡くなった祖父の棺に庭の切り花をその場で刈って入れた時、
兄の棺に花を入れて送ってあげたいと思った時、
知人の葬儀で、めいいっぱいの花をお孫さんたちがその棺に入れてあげた時、

あぁ、花って綺麗だなって思った。
いてくれてありがとう、お花って思った。


花たちが、
「わたしたち、きれいでしょう。」
「あんたたちの代わりにこの人ときれいなままで燃えてあげるから、安心しなさいな」
そんな風に言ってくれているような感覚を得た。

(切り花からすると勝手な解釈をしてというかもしれないけど)


もう切り花は切られている。

だからこそ、あとできる「咲き誇る」を私たちはするだけだと、
遠慮なく四肢を投げ打ってくれている。
どうせならキレイに飾ってよ、と。

私はそんな切られた花たちから、力をもらう。

彼らは切られているけれど、まだ生きていて
そして咲き誇っている。

しょうがない、と私たちのそばにいてくれている気がする。
しょうがないと、共に燃えてくれる。

植物は器が大きい、と勝手に思う。


誰かを悼む時、
時折花を買ってきて水差しにいける。


咲き誇ってくれるその様に、
なんとなく私は救われている。

咲き散った彼らを新聞でまとめて
燃えるゴミのゴミ箱に捨てるときでさえ、
なんとなく私は救われているのだ。




果ノ子

(植物の「生きている」はどこからどこまでなんだろうと思う。病院での仕事も含めて命を考えると、命って「水の巡り」なんだろうなって思った。その巡りがうまくいっているうちは、切り花でも死んでいるというよりは生きている気がする。)
(動物の命について思ったことの話はこちら↓)


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