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今日も静岡茶屋でお待ちしています vol.9 癒しの茶ろまテラピー



「あれ、この香り……」
 ヨガスタジオの扉を開けた瞬間、鼻先をお茶の香りがくすぐった気がした。お茶問屋が軒を連ねる静岡市茶町に漂うのと同じ、香ばしくて甘いお茶の香りだ。でもここは、駅前の商業施設にあるヨガスタジオだ。
「ヨガスタジオでお茶の香りがする……わけないか」

 1年越しの片思いが成就して、薫と付き合うようになってひと月。付き合っていても、お互いの時間を尊重しよう。萌がそう決めたのは、過去の恋愛の、苦すぎる経験からだ。なのに、知らず知らずいつも薫のことを考え、どこかふわふわしている。仕事に集中できなくて、今日はミスを連発してしまった。不意に”恋愛中毒”という単語が頭をよぎって、慄然とした。

 いったん、頭のなかから薫を追い出そう。そう思って、今夜は会社の帰りにヨガにきたのに、お茶の香りは、否が応でも薫を連想させた。
「あ、お茶の香りします?」
 両手を伸ばし、しなやかにストレッチをしながら、インストラクターが萌のつぶやきに反応した。 

「え?」
 萌が問い返すと、彼女は説明した。
「島田市のお茶屋の女将さんが茶香炉専用に作ったお茶を焚いているんですよ。いい香りですよね」

 *

   萌は、島田市での外回りの帰り道、茶香炉専用茶葉『ちゃろま』の製造元、お茶問屋「お茶のあおしま」に立ち寄った。
 茶香炉は、茶葉をろうそくの炎などで熱してその香りを楽しむ香炉だ。茶香炉自体は、昔から存在したものではない。陶器会社が20年ほど前にアロマテラピーで用いるアロマポットにヒントを得て商品化したものが、お茶愛好家の間で広まっている。

 『お茶のあおしま』は、工場併設のお茶問屋だが、県内のほかの問屋同様、事務所の脇に小さな小売スペースがある。一般のお客さんも産地直送のお茶を目当てにやってくるのだ。お茶屋の女将(おかみ)、青島美貴さんが出迎えた。店舗に併設した茶工場でお茶の火入れを行っているのだろう、店先までお茶の香りが漂う。

お茶は、多くの場合、生産者さんと問屋さんの合作です。農家さんが生葉を摘み、蒸して揉んで乾燥させ、「荒茶(あらちゃ)」という状態にします。その荒茶を問屋さんが、問屋さんの工場で、大きさを整え(選別)、さらに茶葉を乾燥させ、香りや味わいをつけ(火入れ)、特徴の異なる数種類の茶葉をブレンド(合組(ごうぐみ))して完成します。

 新茶がでまわる4月下旬から5月上旬、茶畑のちかくの茶工場や茶町で、この焙煎香が漂う。
「甘くて香ばしい、いいかおりですね」
「お茶工場の香りって、わたし大好きなの。その香りをみなさんにも楽しんでもらえたらとおもって『ちゃろま』を開発しました」
 美貴は、萌に気さくな笑顔を向けた。

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「お茶の香りって色々出ているでしょう。でもなかにはあまり香りのよくないものもあって。これがお茶の香りだって思われたらいやだなぁって思っていたの」
 大好きな茶工場の香りを目指して試行錯誤の末、香りがよく、その香りが持続し、焦げにくい茶香炉専用の茶葉が完成したのだという。 

「飲んで美味しいお茶って当たり前の静岡で、お茶の香りから、お茶の可能性を広げていけたらなって」
 島田市内の茶畑で生産されたやぶきたの茶葉のみを使用し、香料は添加していない。

「不規則な炎のゆらぎって1/fゆらぎ(えふぶんのいちゆらぎ)といって、リラックス効果があるんですって。香りだけではなく、炎のゆらぎとあわせてリラックスしていただけるんです」

1/fゆらぎ(えふぶんのいちゆらぎ)
五感を通して外界から不規則な1/fゆらぎを感知すると、リラックス効果が得られることが科学的に分かってきています。ろうそくの炎のゆれのほか、小川のせせらぐ音や、目の動き方、蛍の光り方などに1/fゆらぎをみつけることができる。

 ふと、気になったことを尋ねた。
「美貴さんは、ご結婚されてすぐ、お茶屋の女将さんになられたのですか?」 
「ううん。義父が亡くなった7年前から。ほんとうはね、家業を継ぐ気はなかったの」
 美貴は、企業の組織の中でステップアップしていくことを目標とし、結婚後も大手電気機器メーカーの営業として活躍してきた。義父の死をきっかけに、家業を継ぐことになった。
 
 「人と人をつなぐことが大好き」という美貴が、家業を継いだことで取引先や商品のラインナップが飛躍的に広がった。いま、看板女将として活躍している。
「それまで、夫とは別々の仕事をしながら、刺激しあえばいいなと思ってきたんだけど、夫の茶師としての思いは、一緒に仕事をしなければ分からなかったの」
 そういって、美貴は微笑んだ。

 そのとき、店に初老の女性が来店し、美貴と客のにぎやかなやりとりが始まった。そんなやりとりが聞こえたのか、事務所から物腰の優しい男性が顔を出した。美貴の夫で「お茶のあおしま」の店主、青島光俊だ。

 常連客なのか、女性は、光俊に前回のお茶の感想を遠慮なくぶつける。
「この間の深蒸しはちょっと細かすぎたかな。急須が詰まっちゃって」
「じゃあ、もう少し形状のあるものを入れますよ」
「それと、玄米茶。もうちょっと玄米が多い方が私の好みだわ」
「じゃ、どちらもいま、やっちゃうよ」
 そういって、光俊は人の好さそうな笑顔を見せた。

 十数分後、工場から戻った光俊の手には、小さなお茶の包みがふたつあった。女性は大事そうにそれを受け取った。世界でたったひとつのオーダーメイドのお茶だ。数百キロの大口の取引じゃない。たった数百グラムのお茶をお客様の好みに合わせて合組をしなおしたのだ。 


「すごいですね……」
 萌は思わず、呟いた。
「いいお茶をつくってくれる生産者さんを、お客さんにもっと知ってほしいと願っています。浅蒸しなのか深蒸しなのか、香ばしいお茶なのか……、お客様に好みのお茶を見つけてほしいと思っているんです」  

 そう話す光俊の横で、美貴が首をすくめた。
「彼は根っからの職人なの。私だったら利をとっちゃうところを、彼はそうじゃない。ひとりひとりに対して、どんな方へも平等にヒアリングし、好みのお茶を飲んでもらうために手間を惜しまない。一緒に仕事をして、それが一番びっくりしたことかな」 

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 社交的な美貴と職人肌の光俊。
 タイプの違うふたりだが、生産者とお客様をつなぐ――人と人をつなぐ仕事を共同しているのだ。

「夫婦円満の秘訣ってありますか」 
「相手への思いやり、かな。わたしも彼の時間ややりたいことを尊重しているし、彼も私の趣味や仕事以外の活動もサポートしてくれています。でも、はじめからそうだったわけじゃないのかも。それがいつの間にか自然になったという感じかなぁ」

 わたしも、薫と自然体で付き合えるようになれたらいいな。萌はふたたび爽やかなお茶の香りを胸に吸い込んだ。

 *

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「今日もいろいろやらかしたなァ」
 萌は、茶香炉の火をともした。
 ゆらゆらとゆれる炎を眺めていると、じわりとお茶の香りが漂ってきた。鼻いっぱいにお茶の香りを吸って、ゆっくり吐き出す。

 吸い込んだお茶の香りは、鼻から入り、頭やお腹を満たす。息を吐き出すたびに、今日の仕事のミスが、自分以外のものになって身体の外へ出ていくようだ。つめこまれたものが頭から消えていき、すこしずつ、軽さを取り戻す。

 このまま頭を真っ白に……と思った瞬間、炎の向こうに、お茶屋の店頭に立つ薫の姿がゆらいだ。その隣に萌自身の姿。あわててもう一度、息を吸って吐き出してみても、妄想は消えてくれそうにない。

「お茶屋の女将さんかぁ」
 いつか、そんな日が来たらいいな。
 妄想を追い出すのを諦めると、急に瞼が重くなり、心地の良い睡魔が襲ってきた。

お茶のあおしま
静岡県島田市井口1206
http://www.ocha-aoshima.co.jp
お問い合わせ 0547-38-3739
営業時間 8:30〜18:00
駐車場 あり
定休日 日曜・祝日

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 茶香炉専用茶葉『ちゃろま』は、こちらからご購入いただけます。


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