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与謝野晶子最晩年の百首屏風が見つかった話【和樂web取材こぼれ話・その5 】

和樂webに2020年11月、掲載された「夫の浮気や生活苦にも人並外れたバイタリティーで乗り切った!与謝野晶子の諦めない人生」にちなんで、お届けしているコラムの第2弾です。タイムリーなニュースが飛び込んできたので、ご紹介します。(上の写真は、東京・渋谷の道玄坂に建つ晶子の歌碑。「母遠うてひとみ(瞳)したしき西の山さがみ(相模)か知らず雨雲かかる」と刻まれています。渋谷区教育委員会の案内板によると、大阪・堺の実家がある西方に連なる山並みを眺め、母を懐かしんで詠んだ詩とのこと。筆跡は晶子自身の書簡による集字です)

与謝野晶子が最晩年に書いた「百首屏風」が、大阪・堺の与謝野晶子記念館によって確認されたそうです。毎日新聞が2020年11月13日付の夕刊で報じました。

記事によると、このには『みだれ髪』をはじめ、23の歌集のほぼ全てから約150首の歌を選んでおり、脳出血で半身不随になる2ヵ月前に書かれたものだということです。高知県の名士が制作を依頼、その子孫が保管していました。

「百首屏風」は晶子が夫・寛(鉄幹)の渡欧費用を工面するために作り始めましたが、その後もまとまった金が入り用になると、作っていたそうです。

ただ、今回確認された「百首屏風」で注目されるのは、『みだれ髪』の歌も書かれていることです。今風に言うと、ブレイクするきっかけとなったこの若書きの歌集を、晶子は後年、嫌っていました。技巧的や短歌としての成熟度はその後の作品の方が優れていると思うのに、世間ではいつまでも『みだれ髪』を口にすると。

確かに、『みだれ髪』には、やや仰々しい比喩や自己陶酔の強さが見られると私も感じます。しかし、これは若さの発露であり、あの年齢だければ書けない表現でした。

本を読むのが好きで、「うたごころ」のある人なら、10代の頃に詩を書いたことがきっとあるはず。後で振り返ってみれば、ポエム全開で恥ずかしい限り。それでもなんだかまぶしい気がする。そんな詩を書いたことはありませんか? 私にも何冊かノートがあるのですが、捨てるに捨てられず、こっそりと隠し持っています。詩の出来映えは雲泥の差がありますが、晶子にとっての『みだれ髪』もきっとそんな存在だったのではないでしょうか。

嫌っていたはずの『みだれ髪』の歌を、「百首屏風」に書いたとき、晶子の胸中は何が去来したのでしょうか。筆跡を直に目で見てみて、感じてみたいです。上記の写真のように、晶子の筆跡はふわっとして丸みを帯びていて、筆圧を感じません。まるで雲のような感じです。堺市の「さかい利晶の杜」では、2021年1月18日まで公開されています。機会があれば、行ってみたいです。

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