これからあいつらがどうしていくのが一番良いのかおれには分からないけど、リズの傘木は立派なやつなので好きにするといいと思う、という話

『リズと青い鳥』、原作にあたる波乱の第二楽章読んだうえで2回見てきました。以下主に傘木希美について。


『リズと青い鳥』における傘木希美は、「姿勢の良いあほ」として映画の中に登場してきます。傘木希美はここ最近あきらかに人生がうまくいってないので、その現実から目をそらして生きてるが故のあほ面なのかなと思うんですが、結局現実に追いつかれてぺしゃんこにされ、様々なことを考えたであろうその物語の最後に、やっぱり姿勢の良いあほとして物語を去っていくんですよね。これがえらい。

過剰に落ち込まずに普段通り機嫌よくしておくことはストレスフルな現実を乗り越える方法の一つであり、また周囲へのこころ遣いであり、強さと優しさがなければ決して出来ることではなく、自分はたいへん感心したのでした。


さてさて、原作読んでたこともあって「どんだけミスリードしても傘木が青い鳥はむりがあるやろ」と思いながら映画を見ていたのですが、映画はだんだんと原作から乖離していきました。

いまや鎧塚みぞれこそが青い鳥であることへの原作よりも早い段階での気づき、丘の上の藤棚のベンチで夕焼けに燃える空を眺めながら何かを考えてるシーン、終盤の大好きのハグでの原作よりも前向きなニュアンスを感じる「みぞれのオーボエが好き」を経て、最後の下校中の「オーボエ続ける」「支えるから待ってて」の呼びかけあいによって、リズって映画は希美とみぞれの両者ともに青い鳥ENDだったということが明らかになります。自分はその予想だにしなかった明るい雰囲気に驚かされました。原作はもっとビターな話でしたからね。

鎧塚みぞれが青い鳥だとふたりが気づいたシーンでインサートされた無数の鳥たちが飛び去っていくイメージによって、既に青い鳥は解き放たれているので、最終盤になって傘木希美もまた青い鳥だったということが明らかになるのであれば、傘木もすでに彼女を縛っていた精神の迷路から解き放たれているということになります。


そもそも、ユーフォというシリーズは、ずっと何らかの檻に閉じ込められた青少年を描いてました。

第1期はスポ根とか青春とかいうよりは、まどマギとかラブデスターと同じ思春期デスゲームものの類型であって、ずらっと並んだ吹部の女子たちがつぎつぎに何らかの形で敗北していくのが見どころとなっている、たいへん面白いんですけど同じくらい悪趣味な話でした。

敗北してなお誇り高い女子たちの姿は尊いですけれど、同時に痛ましくもあります。敗北しても誇り高くふるまうこと、栄誉を得る機会を失ってなお仲間へ奉仕することを強いる作劇には、やり場のない腹立ちを感じたものです。

また、デスゲームものの変形であるということは退部という選択肢は死と同じであり、それゆえ退部後の斎藤葵の人生に対して肯定的なフォローをしてやることが出来なかったことも、見ていて辛くてしょうがなかったです。

第2期において吹奏楽部の代わりに檻としてあらわれてくるのが家族でした。2期で大きく取り扱われる田中あすかの母は、明確に問題がある親として描かれているので、家族制度を強要されるような気持ちの悪さはありません。とはいえ、田中あすかが母を見捨てることはありませんでしたし、今後もないだろうなと思われます。田中あすかにはそれができてしまうだけの能力があるので。また、黄前姉も将来的には父と和解することでしょう。

ユーフォの第2期では3年生の卒業は描かれましたがその先の進路は描かれず、黄前久美子の学校と家との往復を超えて描かれるものはほとんどなく、あってもいまだ形になっていない姉の新しい夢やすでに亡くなっている滝先生の奥さんなど、限定的なものに留まりました。

また、ユーフォの2期は愛や意志の話で、1期のような悪趣味さは後退しているのですが、とはいえ同系統の格上である田中あすかに黄前久美子の姉貴分としての立場まで奪われた斎藤葵のことを考えると心穏やかではいられません。


そうして見てきたとき、リズにおける飛び立つ青い鳥たちのイメージは解放感にあふれ、とても気持ちが良いです。希美とみぞれについてだけ語りたいのであれば青い鳥は1羽か2羽だけでよく、無数の鳥たちが描かれているのは、希美とみぞれを代表としつつも、(ユーフォという作品に登場してきた)すべての若者が青い鳥でありうるからですね。

傘木と鎧塚の悩みは高校を卒業した後の進路であり、コンクール後の未来を描けたからこそ鎧塚はコンクール本番を楽しみにすることができるようになります。そもそも、1・2期でともに部の目標にして物語のクライマックスとして、あれほど重大な問題として描かれてきたコンクールの扱いが、リズではずいぶんと小さくなっています。それまでの物語の定型から解放されていることもリズ終盤の解放感の一因であり、希美とみぞれのサブプロットをスピンオフとして独立させたかいがあったと思います。


なにより良いのが、ラストカットで傘木希美の顔が見えないことです。

傘木希美の“謎の女”性は2種類あって、ひとつは非言語的な表現でじわじわと明らかにされていく傘木希美の人間像で、でもこれについては謎と言っても、解釈の幅はあれど映画を観終わってみればある程度の答えが出るわけです、本来であれば。もうひとつは、終盤の雰囲気が原作より明るくなっているリズと、もうちょっとビターな原作との間の傘木希美像の綱引きですね。

しかし、未来に開かれたラストカットで顔が見えないことは、答合わせを不可能にさせていますし、また原作にないシーンでなおかつ傘木希美の顔が見えないのであれば解釈の綱引きも発生しません。

この時の傘木希美は、物語とその作者たちの制御を離れるにとどまらず、観客の解釈にゆだねられているわけですらなく、ただもうわからない。

鎧塚みぞれと傘木希美の二人ともが青い鳥であることが明らかになった時に、『リズと青い鳥』という物語がハッピーエンドなのかビターエンドなのかは、鎧塚みぞれは覚悟完了しているので、傘木希美の方にボールが預けられた状態になっています。

鎧塚みぞれと付き合い続けることは傘木希美にとって負担に成ること自体は間違いないですし、少なくとも原作の傘木希美は高校を卒業したら鎧塚みぞれと距離を置いたほうが良いと思います。一方でリズの傘木希美は立派なやつなのできっとその負担に耐えられるでしょうけれど、世界がハッピーエンドであるために傘木に負担を強いるようなことはしたくない。そんなアンビバレンツを抱えながら傘木希美のあほ面を見守っていると最後の最後でその顔がわからないんですよね。ふたりの関係がハッピーエンドなのかどうかの選択権を傘木希美が握ったまま、物語の描写からも読者の解釈からも逃げ去ってこの作品は終わります。

傘木希美が結局のところどんな奴だったのか、そしてこの先どんな未来を選ぶのか(ことば通りに鎧塚みぞれのもとに戻ってくるのか、そもそもそれがあいつらのハッピーエンドなのかも含めて)は、傘木自身の自己決定にゆだねればいいことであって、観客は知る術も必要もないのです。傘木は立派なやつなんだから無関係な自分が心配するようなことではない。これは本当に素敵なことだと思います。


リズにおいても、いつの間にかアイスを奢らされそうになっている加藤葉月とかバスケのシュートがリングに嫌われる中川夏紀とかは、失敗することがキャラクターに属性として付与されてしまうようで嫌だなと思ったんですが、でもそれらの描写の先にこの解放があって、そして今後シリーズが続いていく中で多少の後退があったとしても、この解放がなかったことにはなりようがありません。

今後の黄前久美子2年生編・3年生編がより楽しみになるとともに、リズでの解放によって斎藤葵の選択とその後に再度スポットを当てることが叶うようになったのではー?と思いますので、そちらにも期待しています。

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