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『キック・アス』というコミックの有害性への言及

「法律や正義に違反することに対して共感を抱かせるようなかたちで犯罪を表現してはならないし、また他者に模倣の願望を抱かせるような盈虚力をもつ犯罪を表現してはならない」

マーク・ミラー、ジョン・ロミータ・Jrによるコミック『キック・アス』はタイトルと表紙がすでに表しているように非常に「暴力的」である。表紙は緑色のジャンプスーツを着た主人公がこちらに背を向けて両手に棍棒を持ち、全身に血を浴びて敵の身体と血の海の中に立っている構図が描かれている。この時点ですでに、ヒーローものでありながら『デッドプール』や『パニッシャー』、『ウォッチメン』のロールシャッハ的ヒーローの織り成す血と暴力の物語であると推測できる。しかし『キック・アス』とこれら「暴力的」な作品との決定的な違いは、暴力描写やその他過激描写がかつての有害コミックへの意識的な言及であり、かつ「コミックに悪影響を受ける」ということへの明確な姿勢が表現されているところにある。

『キック・アス』の冒頭は主人公のモノローグと共に「ニューヨーク・ポストで僕の記事を読んだただの頭のイカレた男」が、ビルの屋上から飛び降りるシーンから始まる。この男は空中でのウィング起動に失敗し死んでしまうのだが、ここでは「コミックに影響を受けた主人公」に影響を受けた男の事故死が描かれており、これは有害コミックが新聞等で取りざたされ始めた1940年代後半にそれらの議論を活性化させることとなった事件と共通する点がある。スーパーヒーローもののコミックや実録犯罪コミックが最も盛んだった1940年代において、すでに有害な内容が子供たちに悪影響を与えている旨の議論はなされていた。デヴィッド・ハジューの著作有害コミック撲滅!ーアメリカを変えた50年代「悪書」狩りー』では、犯罪コミックスの禁止が取りざたされた1949年において、コミックを原因とした子供の死亡事件とコミックに影響を受けた子供による暴力的な事件が法制化の論点の理由となったことが書かれている。それらの事件のうちの一つはコミックをめぐって喧嘩になった兄弟が一方を銃で射殺してしまった事件であり、残りの二つは西部劇のコミックをマネして首を吊ってしまった子供、そして友達を拷問しようとした3人の少年たちが「犯罪と拷問を書いたコミックブックの熱心な読者」であったというものだ。
『キック・アス』においてこのシーンを最初に挿入した意図はそこにある。つまり、この物語が「スーツを着た一般人がヒーローの真似事をするとどうなるか」をコミカルかつ暴力的に描いた作品でありながら、同時に1940年代にフレデリック・ワーサムらが唱えたコミックの有害性をそのままなぞるかのようなテーマ性を持っていることへの言及であり、そしてこの「イカレた男」が社会に表出するということが主人公にとってどのような意味を持つかは再びこのシーンに戻ってくる、最後のページで(この男の象徴的な結末と共に)明かされるのである。

有害コミックを規制しようとしたルールはいくつか存在するが、その中でも映画に適用されるべく発案されたヘイズ・コードを応用した「コミックス・コード」では6つの原則が課されている(実際に厳格に守られることはなかった)。『キック・アス』では、ほとんど意識的といっていいほどにこれらの原則が犯されている。例えば「コミックス・コード」では残虐な拷問シーンの描写を禁止しているが、主人公が最初に登場するのは「睾丸に電線を巻かれて」拷問されているシーンである。それも開始たったの数ページでの出来事である。「コミックス・コード」では俗悪で卑猥な言葉の使用を禁止したが、『キック・アス』では子供と大人の区別なく登場人物たちが俗悪で卑猥な言葉を使用し、そして劇中ではわざわざ「tank」なるオリジナルのスラングを登場させている。「コミックス・コード」では俗語(スラング)は物語上必須の場合のみの使用に限るとあるが、ここでの「tank」の使用(とチャプターをまたいだ伏線)は明らかにアクションへの反応としての台詞を超えた倫理規制へのユーモアと意図があるように思われる。そのほかにも「コミックス・コード」における離婚を面白おかしく扱ってはいけないという原則と過度に露出した女性の絵を見せてはならないという原則は主人公の父親の結末として冗談めかして描かれており、さらにいかなる宗教的あるいは人種的グループに対してもこれを嘲笑したり攻撃してはいけないという原則に関してはキック・アスが戦う相手が毎回黒人であり、かつ黒幕がイタリア系の「ミスター・ジェノベーゼ」なのは物語を単純化させるための仕掛けであるといえなくもないだろう。
一方で、特に今作品において中心的なテーマであるのは「法律や正義に違反することに対して共感を抱かせるようなかたちで犯罪を表現してはならないし、また他者に模倣の願望を抱かせるような盈虚力をもつ犯罪を表現してはならない」という原則である。『キック・アス』には主人公がコミックに憧れているという、ある種メタ的な、ヒーローコミック文化への自己言及的な姿勢がある。『キック・アス』は有害コミック論争において考案されてきた数々の倫理コードを犯しているが、もっとも根幹にあるテーマでありプロットそのものでもある「青年がコミックに憧れて犯罪的な領域に踏み込んでいく」という点への言及は、たんに倫理コードを懐古的に面白おかしく違反する以上のものがあるように思える。それは徹底された「結果」の描写である。そもそも有害コミック論争において最も論争の的となったのは本当に有害コミックを読んだ子供たちが悪影響をうけるかどうかではなくて、子供たちが悪影響を受けることを前提とした上での「結果」(consequence)をどう扱うかだったと、デヴィッド・ハジューは述べている。そしてもっともこの「結果」というテーマ性を反映させたキャラクター造形が為されているのは主人公のキック・アスよりもヒット・ガールだろう。

ヒット・ガールは、およそコミックと呼べる媒体が19世紀末から新聞に載りだしたころから続くコミックへの「批判」と「懸念」を全て詰め込んだかのようなキャラクターである。作中ではロールシャッハとパニッシャーを合体させたようなビッグ・ダディと呼ばれる父親の常軌を逸した娘への指導/日常が描写されている。ビッグ・ダディがケースに保管していたコミックのコレクションの多くは1960年代のスーパーヒーローものの作品であり(2010年に『キック・アス』が刊行されたことから果たしてビッグ・ダディがこれらのコミックをリアルタイムで買い、追いかけていたのかは疑問だが)、ビッグ・ダディがキック・アス/デイヴ・リズースキーが行きつく先としてのキャラクター造形なのは明らかである。このコミック・オタク両者が最終的に経験する悲劇はどちらも自分で選択しその結果を招いたにすぎないといえる。一方でヒット・ガールは初めから選択の余地を与えられておらず、かつ「有害コミック」の間接的な被害者ともいえるし、同時に当時の有害コミック批判者の最も恐れた姿でもある。彼女は子供であり、コミックの影響で暴力を行い、犯罪に手を染め、汚い言葉を使うという有害コミック批判者が想定したもっとも典型的な姿でありながら、『犯罪はひきあわない』のように教訓としての性質を持たずに、悪を倒し平穏な生活を手に入れ物語が幕を閉じてしまうのである(父親は殺されたが悲劇性はほとんどなく、解放として描かれる)。そこにはヒット・ガールが精神的なトラウマを抱えていただとかフロイト的な分析などはいっさい介入せず、有害コミックがなしえた最悪の形の「結果」が無事に勝利してしまうのであり、そこがこの作品の持つテーマ性を担う一要素であるともいえる。

コミックはもともと日刊の新聞の付録として始まっており、ニューズスタンドで売られていたことから常に情報伝達やコミュニケーションツールとしての側面を持っていた。『キック・アス』ではところどころにニュースや新聞、動画サイトでの拡散によるヒーロー=キック・アスの神格化が描写されており、それが結果的に冒頭の飛び降りた男につながることはコミックがどのように広まり影響を与え、同時に危険視されたかを効果的に表しているように思える。キック・アス/デイヴ・リズースキーは最後にモノローグで「世界は僕が望んでいた通りに変わった。だからって、よりよくなった訳じゃないけど…」と述べている。初めからデイヴ・リズースキーが目指していたのは自分の能力(そもそも彼は能力が無かったが)を使って世界をより良い方向にもっていくことではなく、世界中にいるであろうコミックに影響を受けたであろう人たちが自分のようにコスプレをして活動をする社会を作ることだったのである。この作品ではコミックに影響を受けた/毒されたものが到達しうる世界と変え得る社会の限界をしっかりと示しており、決して神格化していないのだ。『キック・アス』はかつての有害コミックへの愛に塗れた露悪的な作品でありながら同時にその限界も描く。しかし内省的なテーマ性を内包させる気はさらさら無く、生まれつきの被害者と選ばれた被害者の(同時に究極の加害者でもある)2人は血塗れで悪党のケツと倫理コードの全てを蹴っ飛ばす決意を固めるのである。名作であり、一読すべき「有害」コミックである。

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