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おばあちゃんが歩いてくる

おばあちゃんがうちまで来るには、脇に家のポツポツと並ぶ坂を上がって、角を曲がり、両脇が田んぼの一本道を下りてくる。その田んぼからの道はうちの玄関からよく見えて、自転車の中学生とか軽トラックとか、猫とか、ゴム長を履いた人が農具を持って歩いているのがわかる。そこから出ている細い道を来れば、ここの玄関だ。

私がまだ中学生の頃、うちにはK太という柴犬の雑種の犬がいた。おばあちゃんにはしょっちゅう会うわけではなかったが、K太にとっては見知った仲だった。おばあちゃんはその日、ぜんまいを揉みに来てくれるのだった。ぜんまいは父が山から採って来て、母が(嫌々)ごみを取って洗って茹でて灰汁抜きをし、天気のいい日に外で、ござの上にひと摑みくらいの小山に分けて、それぞれを揉んでは干しを何日と繰り返し、最後はからっからの状態にもっていって保存するものだ。その揉み手に来てくれるのだった。私は匂いが好きで、一緒に揉んだ。陽の下で乾くものはどうしてああも良い匂いがするのか。大根でも椎茸でも魚でもトマトでも布団でも。梅干しなんかは梅のびっしり並んだざるを覗き込んだと同時に梅の香が鼻腔から脳に行って、顔中に行き渡り、唾が溢れ頰が痛くなる。センセーショナル。「あーなんていい匂いなんだ」とさらに深呼吸などして、しばらくは浸る。

チャリチャリチャリと鎖を引きずる音がして、「うワンワンワン!」と始まった。「うワンワンワン!うワンワンワン!」外に出ても、おばあちゃんが通る道には誰もいない。K太は鎖をピンと張ってクンクンしながらワンワンをやめない。姿は無いが確実に近づいているのだ、おばあちゃんが!K太はゼーゼーしながらもペースを落とさない。しばらくしてようやくおばあちゃんが現れた。おばあちゃんは小さい。腰は二つ折りといっていいかもしれない。杖を突きつき、右、左、右、左、と体が揺れて、小さい歩幅でゆっくりと動いている。ゼンマイ仕掛けみたいだ。おばあちゃんは耳が遠いゆえ、K太の必至の声も届いているはずはなく、「K太があんなに呼んでるから行かなきゃ」などと、おばあちゃんがペースを上げることも、無い。まだ小さく見えるから、あの歩調だとあと...15分でつくのかなあと、K太を見ると、切なさでいっぱいの右往左往。「ヘエーーーーッ、ヘエーーーーッ」とかすれ声。

5分ほどすると、燃え尽きたかK太が腹をつけて座った。「そうだよな」と新たに水を汲んでやって私も座って待つ。待つ。あ、細い道の入り口まで来た。おばあちゃんが直線上に見えたが、あれもまた3分はかかりそうだ。K太はやはり立ち上がる。「うワンワンワン!」「あと3分くらいかかるよ」と言ってみたと思う、覚えてないけど。私は犬にでも蟻にでも、話しかけるから。

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