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「原爆の絵」とこれからの証言活動

高校生が被爆者の証言をもとに原爆の絵を描く、と聞いてどのような印象を抱くだろうか。特別なことだと思うか、もしくはよくある学校行事の一つだと捉えるか。かくいう私は後者のように捉えていた事もある。被爆地広島で生まれ育った私は同じ広島の高校生がそのような活動をしていると聞き、なるほどと思った。それだけだ。

広島市立基町高校創造表現コースでは、毎年数名の生徒が原爆の絵を描いている。絵の題材は被爆者の証言。被爆者の思い描く世界を絵という形にするために、生徒は被爆者と何度も打ち合わせを重ねる。救護所はどのような様子だったのか、空の色はこの色でよいのか、絵を描くために交わされるやり取りの中には当然被爆者の心をえぐるようなものもある。あるいは生徒も、その被爆者の姿から時を超えた現在に原爆によって心が揺れ動くことも多いはずだ。そのようにして絵は描かれる。

詳しくは基町高校や広島平和記念資料館のHPを見たり、検索したりしてみてほしい。実際に書かれている絵の画像も出てくるだろう。

「原爆の絵」といっても描かれる場面は多様である。被爆直後の広島で火傷や怪我に苦しむ人たちの絵。ようやく親族と再会できた絵。炎の舞う絵。ただ静かに白骨が残された絵。原爆投下前の日常の風景。投下の瞬間、ピカが照らした世界。

一目グロテスクな絵から言われなければ原爆の絵とは分からないような絵まで、多様な絵が存在する。それらは全て、被爆者が、あるいは高校生が「後世に残したい」と思ったものなのだ。原爆の伝承活動では「8月6日の証言」が重視されている、という指摘もあったりするし、実際に”需要がある”のはそこであろうというのは容易に納得できる。その中で多様な絵が描かれていることを、絵を見るものは見落としてはならないのだろう、そう思う。

絵を通した若い世代への被爆体験の継承は徐々に様々な人に認知されるようになった。テレビの特集は何度も組まれており、最近では『平和のバトン 広島の高校生が描いた8月6日の記憶』というノンフィクションの書籍も出版された。2015年には青年劇場が基町高校の活動を題材とした演劇『あの夏の絵』(作・演出○福山啓子)が上演された。高校生と被爆者のやりとりが外の世界へも着実に広がっているのだ。それだけのエネルギーが絵には込められているのだろう。そして、「原爆の継承」というものが注目されるようになっている証でもあるのだろう。


ここで原爆の継承についての私の考えを書いておこう。原爆の継承は今転換点を迎えようとしている。あの日を体験した被爆者がいなくなる日はそう遠くない。その中で、次第に証言活動の内容だけでなく証言が次の世代に繋がっているという確かな証を人は自然と求めるようになったのではないか。結果、「原爆の証言」という言葉が含む意味は広がりを見せている。これは、これからの証言の在り方を考える上でのポイントとなるはずだ。

”あの日を体験した被爆者がいない世界”でどう原爆を伝えるか、この課題に対する私の答えはこうだ。

「事実と共に、それを伝えようという意思が確かに今そこに存在することを伝えることが肝心」

証言において大切なのは、伝えたいという意思だと思う。たとえ自らが1945年8月を生きていなくとも、今この瞬間原爆について伝えなければならないことがあるという意思を持っていさえすれば証言はできる。むしろ、そのエネルギーを生んでしまうものの正体こそ伝えていくべきことではないかと感じている。そう思いながら、原爆は時を経てもなおそれだけのエネルギーを与えうる、人類にとってあまりにも大きな存在なんだなと途方に暮れる。

原爆の絵の活動を見ながら、私は高校生が被爆者に、その体験に向き合っている姿そのものが「原爆の絵」として記録されうるものだと感じている。それは実際に先にも述べたようなテレビ特集や本、舞台といった絵とは違う形で記録されて行っている。実は原爆の絵については描く内容などが被爆者の匙加減一つであまりにも大きく変わってしまうのではと思ったりと、私自身疑問に思っている点はいくつかある。しかし、そこに流れる意志は、私は信じている。

このnoteを書こうと思ったきっかけは現在私が住んでいる国立市で原爆の絵の展示が行われていることだった。公民館や市役所で展示しているのでお近くの人は是非。詳しくはHPで。

被爆者の証言を元にかかれた「原爆の絵」、かつては横目に捉えながら素通りしていたであろうその絵を、今ではしっかりと見つめようとする自分がいる。原爆と向き合う高校生やその姿を伝えようとする人たちの意志、新たな証言の空気を今なら感じることができる。だから僕はこの絵が好きなんだ。

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