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原爆ドーム聖域化の過程に見える”忘却”と”排除”

広島平和公園の成り立ち~原爆ドームはどのようにして”聖域となったのか”~

タイトル通り、原爆ドームが「平和のシンボル」としての地位を獲得するまでの平和記念公園や原爆ドームの歴史についてまとめてみようと思う。

広島・原爆についての研究は実に沢山あるのだが、今回は1冊の本に沿って平和公園の成り立ちについて紹介を進めていこう。使う本は、福間良明著『「戦跡」の戦後史 せめぎあう遺構とモニュメント』(2015年、岩波書店)だ。その名の通り、原爆ドームや沖縄、知覧など「戦跡」に焦点を当てた一冊。その本の中でも、【第一章「遺構への嫌悪」の忘却】ではまさに広島平和記念公園・原爆ドームがどのように現在の評価を獲得してきたかという歴史が記されている。

現在、原爆ドームはしばしば「核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボル」と形容されるが、戦後直後の原爆ドームは多くの人から「取り壊した方がいい」と言われていた。この認識の断絶は、”戦後広島を象徴するもの”が時代と共に変化していったことにより生じている。原爆ドームが”聖域”となるプロセスは、同時に忘却と排除の過程でもあったのだ。以下、順に見ていこう。

○原爆ドームへの視線

戦後すぐの原爆ドームへの視線は厳しいものも含まれていた。1949年の広島市での世論調査では、428名の回答のうち、原爆ドームの保存希望が62%に対し、「取り払いたい」も35%に及んだ。「取り払いたい」理由としては「惨事を思い出したくない」が圧倒的に多かった。

少なからぬ被爆体験者にとって原爆ドームは過去の記憶をフラッシュバックさせてしまうものだったのだろう。被爆の痕跡を直視できないが故の原爆ドーム撤去の声は、原爆という体験の重さに基づいている。

○”シンボル”の変遷

戦後初期の広島で戦争体験のシンボルとして筆者が挙げているのが、広島城跡原爆供養塔である。広島城跡は、広島にとって軍都への郷愁の残る場所であった。日清戦争時に広島城に大本営が置かれて以来、広島は軍都として歩んできており、その中心が広島城跡であった。戦後も「市民崇敬のシンボル」としての認識を持たれていたが、GHQ占領下においては国家主義や旧軍懐古につながる議論が抑えられていたこともあり、その意識は広く共有はされなかった。

一方、原爆供養塔は、1946年5月に広島市戦災死没者供養会によって慈仙寺付近(現在の平和記念公園北端)に建てられた。身元が分からず遺族に返すことのできない遺骨が集められ、以後毎年8月6日には各宗派による慰霊祭が開催、一日中多くの参拝者が訪れた。この「無名・無縁の遺骨」は広島の被爆死者全般を象徴する真正さを帯びたものとして認知されていた

その原爆供養塔の”シンボル”としての地位が揺らぐ原因となったのが、平和記念公園の整備であった。

○平和記念公園・モニュメントの前景化

1949年の広島平和記念都市建設法の制定をきっかけに平和公園建設計画は本格的に進み始めた。コンペにより丹下健三グループの案が採用され、公園の整備が進む。その中で見えてきたのが原爆ドームに対する違和感だ。丹下のプランは原爆ドームの存在も公園の基軸として含まれていたが、広島平和記念都市建設専門委員会委員長の飯沼一省は、意見書で以下のように述べている。

原爆によつて破壊された物品陳列所の残骸は、その現状決して美しいものではない。平和都市の記念物としては極めて不似合のものであつて、私見としてはこれは早晩取除かれ跡地は綺麗に清掃せらるべきものであると思う
(p.42)

平和記念公園の整備は上のような意見・世論に支えられて「醜さ」を帯びた原爆ドームの撤去も視野に進められた。そこで起こったのが、「不法住宅」の除去だ。原爆で家屋をなくした市民は多く、市営住宅なども追いつかない中で、住宅を建てられない貧困層は河川敷や倒壊の多かった爆心地付近にバラックをたてて生活するしかなかった。原爆慰霊碑の除幕式では慰霊碑と原爆ドームの間に横断幕が張られた。式典を行う慰霊碑前広場からバラックを覆い隠すための幕であった

こうして市内から被爆の痕跡を除去しながら整備された平和記念公園というモニュメントは真正さを獲得していった。同時に原爆供養塔については注目度・認知度が低下していった。

○「原子力の平和利用」というアイデンティティ

1955年8月、広島平和記念資料館が開館し、広島に新たな動きが見られるようになった。それが「原子力の平和利用」である。1955年1月、米下院議員イエーツは「被爆地広島に工業用原子炉を建設し、原子力が平和利用に有用であることを知らせるべき」と訴えた。これに対し、当時広島市長だった濱井は次のように述べている。

原子力の最初の犠牲都市に初めて原子力の平和利用が行われることは無き犠牲者への慰霊にもなる。”死”のための原子力は”生”のために利用されることに市民は賛成すると思う(p.53)

この論理は濱井に限るものではなかった。1956年に平和記念資料館にて開催された原子力平和利用博覧会の主催者には中国新聞社、広島県、広島市、広島大学、USIS(実質的には広島アメリカ文化センター)が名を連ねた。被爆の経験は原子力の平和利用への期待へと結びついていったのだ

なお、原子力関連施設を広島に設置することへの戸惑いや、その是非の議論も生じたことも併せて指摘されている。軍都としての記憶を持つからこその悔恨が、原発の軍事利用可能性への懸念を促す議論も確認される。

そして、1950年代末には「平和利用」への憧れが沈静化されるようになる。大きな要因として、原子炉導入についての専門性の高さからそれらの議題が論壇の中心から外れるようになり、社会的関心が低下したことがあると指摘される。本文から以下の文章を引用しよう。

「原子力の平和利用」が期待や希望の対象でないのであれば、それは「犠牲者への慰霊」に資するほどの価値を持たず、したがって、「広島市が原爆のためにもっとも大きい惨害を被ったことから原子力の平和利用もまた優先的に恩恵に浴すべき」という論理の説得性もうすれることになる。言うなれば、「平和利用」は、原爆被害や死者たちの死の重さに見合うものではなくなった。(p.61)

○盛り上がりを見せる原爆ドーム保存運動

原爆ドームの保存を求める動きは1960年代に入り少しずつ活性化するようになった。要因として指摘されているのが、遺構の希少性である。戦後20年が経過し、被爆の痕跡はもはや原爆ドーム以外には無く、その原爆ドームも日々自然倒壊の恐れが増していた。自然倒壊への焦燥感は広島内に限らず、丹下健三ら学者・政治家も「原爆ドーム保存要望書」を提出した。

こうした広島内外の世論を受け、1966年、広島市議会は原爆ドームの保存を満場一致で可決した。資金は募金活動により賄われ、メディアを通じて全国にこの動きが知られることとなった。そして「募金を募る」という行動をするうちに、広島は自身で原爆ドームの価値を強く感じるようになっていった。広島は自身で「日本」が「広島」に視線を寄せると同時に、活動を通して「広島」も「日本」からの視線を内面化していくことで、原爆ドームの真正さが創られていったのだ。

盛り上がるドーム保存の議論を見ると、そこでは人類史的意義が強調される一方、広島に固有の体験、記憶は薄れていく傾向にあった。原水爆禁止運動の政治的対立による分裂を目の当たりにしながら、原爆ドームは「人類」全体を覆うシンボルと位置付けられることで、政治や歴史の問題についての討議は抑制されていった

○「保存」の裏の沈黙

原爆ドームの保存が進む中でも、その動きに反対する人たちはいた。その中で、「個人的には原爆ドームは撤去してほしいが、国民全体の立場から考えると、平和のシンボルとして残すべきだ」という被爆体験者の訴えが美談として引かれるようになる。そうして、ドーム保存という「正しい」議論の前にそれを拒絶できないような状況が生まれていたのではないかと筆者は指摘する。ドームを直視できないという当事者の心性は戦後20年という時を経て見えにくくなり、そこには代わりに個人の感情を離れて公的な「正しさ」を優先することを強いるロジックが現れていた。

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以上が本の第一章の内容である。かなり駆け足での紹介となってしまっているが、本書ではそれぞれの事象についてより詳しい背景なども知ることができる。他の章では沖縄・摩文仁戦跡や知覧・特攻戦跡といったものを題材としながら、戦後、それらの地域がどのようにして「戦跡」として記憶され、そのプロセスの中で何が忘却されていったのかを丁寧に解説している。興味があればぜひ読んで見て欲しい。

本を読むと、今の時代から見たら全て「昔のこと」かもしれないものであっても、「昔」の地点ごとに原爆に対しての捉え方が様々であったことが窺える。原爆直後だからよく覚えているとか、時がたったから冷静に見ることができるとか、そういった分かりやすい傾向だけではまとめられない、それ以上に複雑な、記憶を覆う要因がその時代ごとにあることが分かる。

今の時代の原爆についての語りは、どのような膜に覆われているのだろう。「正しさ」について回る”カギカッコ”にはその歴史の分だけ過去の”正しさ”がこびりついている。積み重なって、今がある。今の膜も、いずれはそれに張り付き「昔」の一部になる。あっという間に過去になる。だからせめて、今を見逃さないようにする。

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