VTuberをSNSと捉える

先月発売された『ポケットモンスター ソード・シールド』であるが、多い時には126枠ものVTuberによる配信が同時に行われていたらしい。

ポケモンのストーリー攻略実況配信をここまで多くの配信者がこぞって行うというのは長いポケモンの歴史の中で初めて見たような気がする。
確かに今までも実況者たちにとってポケモン実況は定番ではあったが、それはいわゆるガチ勢によるレート戦であって、エンジョイ勢によるストーリー攻略ではなかった。


ストーリー攻略実況もなくはなかったのだろうが、私の見覚えのあるものは複数画面で同時に攻略するものだったり、選択をさいころ任せにしたものだったりで、新作のストーリー攻略というのはやはりメジャーではなかったように思う。

こんなことを言うとそれが好きな人に怒られそうだが、ポケモンのストーリー攻略というのは実況向きであるとは言い難い。
大ヒットゲームであるためストーリーは自分でプレイする(した)視聴者が多く、育成や探索という取れ高の薄い部分に時間がかかってしまい、難易度的にも物語的にもいい意味で子供が楽しめるような塩梅のもので、実況向きのリアクションというのは取りづらい。

そんなポケモンのストーリー攻略実況をここまで多くのVTuberが配信したという事実はなかなか興味深い。

かつてニコニコ動画にいたようなゲーム実況者が「魅せる・楽しませる」に重きを置いていたとするならば、VTuberというコンテンツにおいては「つながる・(一緒に)楽しむ」という時間や体験の共有に重きを置いているものが多いように思う。(勿論全員ではないが。)

だからこそのポケモン実況ブームなのだろう。
時間や体験の共有という点においてポケモンというメジャータイトルほど適しているものは他にない。
世代も国籍も性別も問わず誰もが知るタイトル。
ポケモンというゲームを通じて視聴者との交流もVTuber同士での交流も可能。
VTuberというコンテンツの強みを活かすのであればポケモン実況をやらない手はない。

ミソシタはいつも私の言いたいことを先に言っている。
おそらく、実際にポケモン実況を視聴したものの多くは「退屈」「実況向けではない」など感じることなどなかったと思われる。
それは、かつてのニコニコ動画のゲーム実況とは「楽しさ」の本質が異なるところにあるからではないだろうか。
ミソシタのこのツイートはどうもクリティカルにそこを突いている気がしてならない。


「時間や体験の共有」「つながり」「仲間」「共感」

VTuberを語るうえでのキーワード。
それっていかにもSNSっぽいよなあなんて考えているとこんなことが頭をよぎった。
「”VTuber”を、VTuberそれ自体をアカウントとする仮想SNSと捉えるとなかなか面白いのではないだろうか。」と。

・SNSとソーシャルメディア

SNSとはなんだろうか。
私たちは直感的にTwitterやinstagram、FacebookなどをSNSの例として挙げることができる。
しかしながら、定義を示せと言われると困る。私も困る。

SNSとは何かを語るうえでは、まず上位概念であるソーシャルメディアとは何かを理解する必要がある。

これについては私が説明するよりもずっとわかりやすいサイトが存在していたのでそちらを引用させていただきたい。

ソーシャルメディアとは、マスメディアと異なり「クモの巣状」に情報の発信者と受信者が繋がっているメディアです。また情報の受け取り手は、情報の送り手でもあるので「拡散」が起こります。
ソーシャルメディアというフォルダにはSNS以外のもの、ブログ、動画共有サービス、写真共有サービスなどがありますね。

VTuberコンテンツを楽しむなら欠かせないYoutube様や、おそらく今記事を書いているnoteもソーシャルメディアだろう。

SNSは情報の伝達が主となる目的ではなく、友人とのコミュニケーションをとることが目的の媒体です。
ここが大事です。SNS=メディアと考えてしまうのは危険です。頭が混乱してきますが、SNSはソーシャルネットワークサービスです。メディア媒体にソーシャルが加わったのではなく、コミュニケーションツールにメディア要素が加わったものです。

ソーシャルメディアと対比すると理解しやすい。
これを前提にして「VTuber」について考えていきたい。

・「VTuber」はソーシャルメディアか、SNSか

VTuberの言葉の起源をたどれば、それは「バーチャルYouTuber」の略称であると理解するのが自然であろう。
そうであるならば、「VTuber」は「YouTuber」の下位概念となるため、ソーシャルメディアにおける活動をしていることとなる。

メディアであるなら当然、そこでの活動は情報伝達先、VTuberでいうところのオーディエンスの存在を前提としたものとなる。


一方で、ここでは「VTuber」を仮想SNS「VTube」で活動する者たちとあえて捉える。
インスタグラムで活動する者たちをインスタグラマーと呼ぶように「VTuber」という呼称を「活動場所」+「er」と捉え、「VTube」という仮想上のSNSを置いた。勿論そんなものは存在しない。

「VTuber」をSNS上で活動するものたちとするのであれば、彼らの目的は情報の伝達ではなく、友人とのコミュニケーションである。
あくまでもコミュニケーションを前提とした活動の中に、メディア要素が加わったものであるので、必ずしもオーディエンスの存在は前提とされない。

ただ、SNS上においてもメディア的活動を主目的とするものは存在しうるということにも留意が必要である。例えばTwitterにおける企業広報用アカウントなどを想像してもらえるとわかりやすいだろう。

さて、「VTuber」はソーシャルメディア的活動をしているのだろうか。それとも、SNS的活動をしているのだろうか。

私なんかはオーディエンスとしてしかVTuberと関わっていないため、直感としてVTuberはソーシャルメディア的活動を行っているものと考えているし、そのような前提で議論が行われていることがほとんどである。

ただ、VTuberはSNS的活動を行っているものと理解したほうがしっくりくることがVTuberを追うにあたって多々あるのも確かなのだ。

なので、この記事においてはあえて「VTuber」がSNS的活動を行っているものとして様々な論点について考えていこうと思う。

・「名乗ればVTuber」という暴論

「名乗ればVTuber」を言葉通り受け取るとそれは暴論と言わざるを得ない。

どこまでVTuberと認めるかという基準は人によって異なるが、「俺はVTuberだ!」とその場で名乗っただけの強盗犯罪者をVTuberによる犯罪と報道されて納得できるものはいないのではないだろうか。

それは流石に極論かもしれないが、仮に私がただVTuberという肩書を付けただけでVTuber限定のゲーム大会に出場しようとしてもそれはほぼ不可能であろう。

また、VTuberと名乗り、かつ継続的な動画投稿やライブ配信を行っているがVTuberとは認識されていない者たちが現に存在している。
元々、顔出しせずに活動していた配信者がVTuberと名乗りだしたパターンの多くがそうである。
そのほとんどが名乗るだけではなく、3Ⅾ・live2Dモデルを用意しているもののVTuberと認識されていなかった。

となれば、「名乗ればVTuber」というのは適当言っているだけか、あるいは「名乗り」に通常とは別の意味があると考えるのが妥当である。


「名乗り」を仮想SNS「VTube」へのアカウント登録であると捉える。

SNSがどのような性質を持つものか思い出してもらえればそれがどのような行為かわかりやすいのではないだろうか。

先に述べたように、SNSはコミュニケーションを目的とするもので、SNSのアカウント登録というのはつまるところコミュニティへの参加である。

「名乗り」というのはVTuberコミュニティへの参加を目に見える形で示すこと、とそう捉えるのが自然である。
それはTwitterのアカウント作成だったり、自己紹介動画の公開だったり、モデル画像の公開だったりとVTuberによって様々な形で行われるが、そこにコミュニティへの参加意思がなければ「名乗り」とは見られていない。

元々顔出ししない配信者として活動していた者たちがVTuberとして認識されていない理由はそこにあるのだろう。彼ら彼女らに共通していたのはVTuberと名乗りながらもVTuberコミュニティへの参加を行わなかった点であった。

同じような境遇であったふくやマスター氏がVTuberとして認識されるようになった経緯を考えるとコミュニティへの参加が必要不可欠な要素であることは間違いないであろう。

「名乗ればVTuber」というのは簡単なようで難しい。

・ハードルを下げるとプレイヤー人口は増える?

VTuberの形式的な部分が重視されなくなったことで参入ハードルが下がり、そのおかげでVTuberの数が増えた、という主張を見ると疑いの目を向けたくなってしまう。

参入ハードルを下げたのがあのVTuberの功績。なんて語られていたりするが、本当に後続のVTuberが参入した理由は参入ハードルが下がったからなのだろうか?

私はそうではないと思う。
真に重要なのはハードルの高低ではなく、それを乗り越えた先にある価値体験だ。

これは受け売りなのだが、大学入試の例で考えるとわかりやすい。

東京大学に入学しようとするのであれば、それは高いハードルを乗り越える必要がある。それでも東京大学を目指す人は多い。なぜなら、高いハードルを乗り越えるだけの価値(将来に有利、そこでしかできない研究等)が存在しているからだ。

逆にハードルさえ低ければ志望者が増えるわけではないということも想像に難くはないだろう。
それともう一つ、東京大学のような例の場合は、ハードルを下げると価値が落ちてしまうこともあるという点にも留意が必要である。

VTuberの話に戻そう。
VTuberの数が爆発的に増えたのは先人たちがハードルを下げたからではなく、高いハードルを乗り越えるだけの価値を示したからだと考えるほうが妥当ではないだろうか。
そうであるなら、界隈の発展には門戸を広げることよりも、門の中にある価値を示すことのほうが大きな意味を持つと感じる。

しかしながら、私がVTuberに触れる中で感じている空気感はどうやらそうではないように感じる。
そうではないというのは、参入ハードルの低さを(私目線でだが)過剰に重んじる界隈だと感じているということだ。

とはいえ、主張するものの中にはVTuberも多いわけで、じゃあ彼らの主張は間違っていると1オーディエンスでしかない私が切り捨てるのもなにか違う気もする。

では、この感覚の違いは何か。
私はVTuberを1種の興行の形と捉えてしまっていたからこそハードルの先の価値(収益をあげる、タレントとしての成功等)の存在に目が向いていた。

しかし、VTuberをSNS的活動と捉えているならどうか。

VTuberをSNSと捉えて活動する場合、ハードルを下げることはコミュニティへの参加者、つまり交流相手を増やすという目的において非常に大きな意味を持っている。

彼らの主目的は交流であり興行はあくまでもそこに付随するパーツにすぎない。交流が目的であるならば確かにVTuberというのはそもそものハードルが高すぎる。であれば、ハードルを下げるという主張の意味についても頷けよう。
(交流目的とするには元々のハードルの位置が高いので)ハードルを下げて参加者を増やすべきだという主張には確かにと言わざるを得ない。
オーディエンスでしかない私の感覚では気づきにくい部分だ。


・仕事/趣味の対比はあれど

「VTuberハウツー」系の記事や動画では大体「趣味でやっているなら別」という但し書きが入る。
内容にもよるが、私はこれに違和感を感じるときがある。
仕事であれ趣味であれ、VTuberが見てもらうことを目的としたものであるならば、やはり目的達成のために行動する必要があり「別」ではないのではないか、と。
当然、そこには経済的・時間的・実力等による制限はかかるが、その中でできることはすべきであると考える。
それは仕事であれ趣味であれ同じで、かかる制限の程度の差でしかない。
というのが仕事/趣味という対比軸の話。

ただ、私は全てのVTuberがオーディエンスを意識した努力をすべきだとは思っていない。

上記してあるソーシャルメディア/SNSという対比において、SNS的活動形態をとるVTuberは「別」なのだ。
なぜなら、目的がオーディエンスを前提としたものではないからだ。

さて、趣味/仕事とソーシャルメディア/SNSの両軸で考えるとなかなか複雑であることが分かる。
「趣味・SNS」と「仕事・ソーシャルメディア」は想像に難くないだろう。
「趣味・ソーシャルメディア」も先ほど述べたように、趣味であってもオーディエンスを前提とした活動であるならできる範囲内での努力はすべきみたいな話になる。
問題は「仕事・SNS」だ。これは感覚では分かりにくい。
仕事ではあるが交流が主な目的であるのでオーディエンスの存在は優先されない活動といってもなかなかピンと来ないだろう。
例えば、「元々SNS的活動をしていたところ、そこにオーディエンスがついたおかげで後天的に仕事になった活動」と説明すればなんとなく理解できるのではないだろうか。メディア属性を付加しうるSNSならではの現象かもしれない。
「仕事・SNS」においてはオーディエンスの存在がなければ仕事として成り立たないが、交流が目的であるためオーディエンスの存在が優先されるわけではないというよくわからない話になる。

この「仕事・SNS」というのはVTuberにおいて決して少なくはない。
そしてこの活動形式はすれ違いによるトラブルを生みやすい。


・VTuberにオーディエンスは必要か?

この問いに対して「必要ない」と答えるVTuberはほとんどいないだろう。
なぜなら、SNS的活動を主目的としたVTuberであってもメディア要素を持ちうるからだ。

では、問いを変えよう。
VTuberはオーディエンスを意識した活動であるべきか?
これは結論が出なさそうである。というのもVTuberという言葉が広すぎる。

もう少し狭める。
企業VTuberはオーディエンスを意識した活動であるべきか?
と、ここまで問いを狭めても意見が割れそうなのがVTuberというものの特徴なのだろう。

そう。割れてしまうのだ。
何を目的にVTuberを始めたか、何に惹かれてVTuberを見始めたかで求めるものは大きく変わる。
SNS的活動をしているVTuberとメディア的活動を求めるオーディエンスの対立などもはや日常茶飯事のような気もする。

留意しておきたいのは「数字が欲しい」は必ずしも「たくさんの視聴者に自分のコンテンツを届けたい」とは限らないということ。
例えば「Twitterのフォロワー1万人欲しい」というのは必ずしも「1万人につぶやきを見て欲しい」というものではなく、「SNS内での自己の地位を高めたい」という目的もありうる。
オーディエンスの数は欲しいがオーディエンスのためではないというスタンスはありうるし、それを責めることはできない。

逆もまた存在する。
メディア的活動をしたいのにSNS的活動を求められ、SNS疲れをおこしてしまうVTuberもいる。

他にもやけにVTuberとの距離感のおかしいオーディエンスがいたりするが、きっと彼は自分のことを1オーディエンスではなく1交流相手と考えているのだろうと思えば納得がいく。

VTuberにオーディエンスが必要なのか。
はたまた、VTuberは自らのスタンスを明確にすべきかというのはわからないが、VTuber及びその視聴者は頭では何が目的で何を求めているのかくらいは理解しておいてもいいのかもしれない。

・動画が流行らない理由

VTuberをSNS的活動と捉えるのであれば動画が流行らないのは簡単に説明がつく。
・生配信に比べて即時性に劣る。
・交流に不便である。
この2点が大きな理由だろうか。

わかりやすい例はそれこそポケモン実況配信だろう。
最新作のゲームをHOTなうちに交流しながら楽しむことができるのが生配信の大きな強みである。

しかし、実は動画勢であってもSNSの強みをいかした活動は可能である。
「キズナアイ面接」というものを覚えているだろうか?
リズムに合わせて様々な言い方で「キズナアイ」というゲームのようなもので割と初期にVTuber界隈において流行った動画である。

・体験の共有ができる。
・動画投稿自体が交流となる。
・テンプレートが存在しており手軽に真似できる。
・適度にオリジナリティを混ぜることができる。

など「キズナアイ面接」はSNS的土壌において流行しやすい要素が詰め込まれていた。
周防パトラの「ぶいちゅっばの歌」や、イヌージョンの「応援ソング」などもそうである。
この辺はTikTokの流行手法に似ているかもしれない。まあTikTokに詳しくないのだが。

VTuberにおいては生配信が今や界隈の中心であることに異論を唱える人は少ないだろう。
そのなかで、動画が再び勢いを取り戻すとすれば「キズナアイ面接」的手法は何かのヒントになるのかもしれない。

・おわりに

この記事は、「VTuberはSNSのようなものだ」とあえて捉えたものである。
当然そうでないVTuberも多数存在しているということは最後にもう一度触れておきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?