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無題23912

自分のやりたいことと、自分にできることとの間にギャップがあるような場合は、努力するか諦めることによって問題は解決すると思うが、いま自分の抱えている問題は、もっと違うところに原因がある。

目標を達成するための最適な手段と、自分があらかじめ想定していた手段との間にギャップがあるのであれば、当然ながら手段を改めなくてはならない。手段に合わせて目的を変えることはできない。
おそらく、自分がいま直面している問題はこちらに近い。

わたしがテーマに掲げている「アクティビティの保存」や、その「ムーブメント化」は、学生時代から独学でつづけてきたことの結論であり、わたしのこれからの人生の中核となるであろう概念なのだが、この数日の自分は、どうやらこの目的を達成するための手段として、まったく無意識的にコンテンツ制作的なものを想定していたらしい。

けれど、コンテンツというのは結局、市場を介してお金にかえることを前提としたプロダクトにすぎず、当然ながら、その製造過程は「労働」ということになる。

しかし、それでは「趣味の範疇」を超えてしまう。

わたしがより多くの時間をついやしたいのは、本を読んだり、映画を観たり、ゲームをしたり、何かを観察したり、何かを考えたり、メモをしたり、考えをまとめるために言葉にしたり、といったことであって、それらをアウトプットするにあたってコンテンツ化するということには、わたしはいまのところ魅力を感じていない。

とはいえ、それでは活動を拡げていくことができない。

つまり、わたしにとって最適な手段とは、「個人的な活動の範疇」を超えるようなものであり、同時に「趣味の範疇」に収まるようなものでなくてはならない。

このあたりのさじ加減の難しさが、わたしを苦しめるのだろう。

今後さらに技術が進歩すれば、働くことが好きであるか否かに関わらず、ほとんどの「労働」は機械によって置き換わるだろう。
だが、人間が自らの幸福や豊かさの増進のために行っている活動は、そもそも他のもので置き換えようがない。
(もし、置き換え可能だという人間がいるのであれば、法の範囲内でどうぞご自由にと言うほかない)

具体例を避け、言いたいことは引っ込め、自分にしかわからないようなコンテクストを多分に行間に詰め込み、そろそろ強引にまとめにはいろうと思う。

結論はシンプルだが、ちゃんと自分が「好き」なことを、「趣味の範囲内」でおこない、コンテンツにはしないが人とは共有する。そういった塩梅で活動をつづけていき、少しずつフォロワーを増やしていくのが最適解のような気がする。
おそらく、現状においては「コンテンツ未満」のものをコンテンツ風に見せるための、トリックやハッタリが必要にはなると思うが、まあそれもよし。

ふと、いま「当チャンネルは、〈好き〉の共有と〈趣味の範疇での活動〉を旨としておりますので、コンテンツのクオリティに関しましては看過いただけるとさいわいです」みたいな定型文を思いついた。
本音ではコンテンツだと思っていないものを、動画の冒頭などで堂々とコンテンツだと言い張ってしまう。大胆不敵というよりは、もはや大胆姑息とでもいうような、そんなオクシモロンでオモロな小技もありかもしれん。

noteもYouTubeも見切り発車ではじめた活動だが、個別の戦術については今後も模索はつづきそうだ。

わたしの活動が、あなたの生活の一助になっているのなら、さいわいです。