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表現について完結編|あたらしい五次元感覚覚書



みなさん、こんにちは!
今日は節分だそうですね。

旧暦元日、節分、立春と、区切りになるような日が毎日あって、
なんとも言えない気持ちです。

わっちのいる岐阜・美濃はとっても寒いのですが
(ここ数日も雪がちらつきそうです。今日も舞っていたみたい)
こう、春のきざしが、先週くらいから感じられます。
鳥の声だったり、空気だったり、光だったり。

で、今年、はじめて、だと思うんですけれど
うれしいという気持ちというより、「はにかみ」みたいな気持ちがやってきたんですよ。「え、もう、春!??!」というたじろぎを含んだはにかみ。
(こういうわっち個人のこまかい気分伝えなくてもいいですかね、どうですかね)

いやー、もっといたら、恥ずかしいって感じ。あはは。
「春きちゃうの!? 恥ずかしいよー、ちょっと待ってよー、もう少し冬でもいいよー」みたいな感覚です。ものすごく寒いんだから、あんしんして、みれい、といいたいですけれど、そういう日々です。

さて!
ここのところ、表現について書かせていただいて、こう、猛ダッシュみたいな感じでわわわわと書いたテキストでして、まとまってはいないのですけれど、でも自分なりに何か、こう、今後のなにかにつながるなにかにはなった気がしています(講座も本もできそうです、ほんとうに。みなさん、コメントほんとうにありがとうございます。とてもうれしいです)。


そうしてね、表現するという行為については、まだまだ、書くことがありそう。そんな折、kaiさんからいただいたあるテキストでは、日本人と第五チャクラ(ずばり表現するところですね。喉のチャクラ)について書かれてあるものを読むことができたり、「よむ声のメルマガ」の校正をしていたら、ちょうど、昨年の6月に行った佐々琢哉展の話をしていたり、ということが起こりました。

佐々くん登場の回の「よむ」は、うまくいけば今月には印刷できそうですので、表現をはじめるかたにはぜひぜひぜひぜひ読んでいただきたいインタビューです。今読むと「なるほどなーー」とところがたくさんあって、感動しました。

佐々くんは、ここ数年で、突然絵を描くようになったんですね。そうして毎日毎日描いていって昨年、絵の展示を、オンライン展示したのです(エムエム・ブックスみのに実際展示をして、それをオンライン配信しました)。

なにもかも初のこころみだったのですけれど、わっちの中では、完全に、「従来の展示」とは違うもの、という思いがありました。こう、あたりまえですがファインアートみたいな文脈からの絵、ということではなくて、あくまで「佐々くん」という人物とその暮らし全体、その周波数を味わうというのかな、また、「あたらしく個からはじまった表現」をめでるというのか、たのしむというのか、昨年展示をやることになって、「ああ、もう、ぜんぜん違う世界に入ったんだな」と企画しながら思ったのをよく覚えています。

今思えば、この2022年、表現イヤーだよーの、前しょう戦といいますか、戦っていうかね、先駆け的なことが起こっていたんだなって思います。

で、その6月の佐々くんのお話がほんとうにおもしろくて。

絵を毎日描く、とにかく描くという行為を大事にする、ということだったり(うまく描くということではなくて)、失敗することの意味だったりだとか、より深く対象を観察するようになった話とか、世界を見る解像度が上がったとか、自発的に世界と関わることがよりできて、それがとてもたのしいとか、独学がよかった話とか、自分で責任をとるとか、とにかく、重要なトピックスに溢れていました。

このテキストを読んで、わっちは、表現イヤーだよーってなること、誰もが表現者になることが、ほんとうに慶賀なことだなって感じるのはなぜなのか、より理解が深まったんですよね。

これは、佐々くんが発言しているんですが、「自己責任」ということがからんでいるわけです。結局、自分で表現するって責任が伴う。これが、ほんとうにいいことだなと思うのです。最高の成熟の道、というか。

マーマーマガジンをつくってきて、ほんとうに、最初は、かなりミーハーな部分がたぶんにあったんです。まわりの超絶おしゃれなヨガの先生たちが、見たことないような直線だちの服着ておられたり、すてきでかわいい女性が、オーガニックのコスメを自由な感覚でつかっていたり、ドイツなどヨーロッパの有機の食材とか。まーファッションから入ってるわけです。ほんと、ミーちゃんハーちゃんだった。(もちろんその奥にある、えもいわれぬ魅力にひかれていたわけですが)おっされーという気持ちが起点だったことはいなめません。

でも、そうやって、ある意味では、ずばりファッションから入って、エシカルファッションとかも知って、「オーガニックコットン」について特集したあたりから、より、こう、なにかが剥がれていったんですよね。冷えとりを知って、自分の心身を自分で整えるようになったこともとても大きいです。瞑想も自己参照性を高めるのにほんとうに役立ったと思います。

なんというか、

社会の「構造」に目がいったというか。

目がさめはじめたというか。

そこからさらに、オーガニックコスメだって新作出している以上、通常のコスメブランドと同じなのでは? とか、いろいろな視点もうまれてきました。そうして、本をつくる上で、たくさんのであいをし、学びを深めていく中で、東日本大震災を経験し、もっとなにかがどんがらがっしゃんとくずれて剥がれ、19号20号で「自然農」の世界にいきつくわけです。

正直、衝撃でした。そうしてね、(話は戻りますからもうすこしだけ話させてください)中島正さんの「国民皆農」の考え方にであうんですなあ! わっち自身、都市的思考、あるいは西洋的な合理的な思考みたいなものをベースにした着ぐるみ、サングラス、仮面がすごかったことにショックを受けたし、そこから、さらにがんがんぬいでいったというかんじ。同時に、からだやこころの毒出しもすごかったです。前述の通り、ホ・オポノポノのクリーニングもすごく役立ちました。

こう、なんだろ、ぜんぜん自分が自分の中心にいないとか、資本主義社会を担保するための思考というか思い込みがすごく自分に染み付いていて、それがつくる特有のチャラさに気づいたりだとか、どんどん気がついて、いろいろなことの嘘にもっともっと気づくようになっていくのですが、いちばん、そのなかでも感じたのが、「消費ばかりしている自分」という存在に気づいたことなんです。消費者である自分ってどこか(あくまでわっちの場合は)チャラかった。「買う側」として、無意識にエラそうだったなと感じたんですよね。

中島正さんの思想からいうと、人間、みんな自然から搾取して生きているわけです。それも、もうそういう構造になっているから、受け取るのがあたりまえになっている。わっちの場合は、わっち自身がそのなかでむちゃくちゃ無思考になり、無意識に傲慢になっていると感じました。「エコ」とか「オーガニック」とかも、もう、消費社会の中にあることがわかってきて(もちろんすばらしいんですけれど)そんなことよりも、もっともっと抜本的なことなんやなと思うようになった。それが、2014年、2015年あたりのことです。今もその気づきのなかにいます。

もっと本質的に生きたくなったんですかね。自分で自分に納得して生きたくなったというか。(今でもできているわけではなくて、そういう方向で行きたいという域をでないわけですが)

なんだって受け取るのって、どこかだいじな部分がおのずと無化するっていうか、なんて言ったらいいのかな、受け取るのって、きわめて楽なんですよね。消費って楽。服1枚とっても、綿を育ててそれを紡いで糸にして布にして染めてデザインして服にして、、なんて、体験したことある現代人ってほとんどいないと思います。でも、そのひとつひとつ全部やったらすごいことですよね。想像するだけでも。

そんな大げさな話じゃなくても、夕ご飯を誰かにつくる立場なのとつくってもらう立場って、まったく違うとかんじます。やってもらうって、行為がもう対象に内在化してしまっているから、なにか、そこまでのことがどこか透明になってしまう。うまくつたわりますかね。

(岐阜の郷土料理やそれにまつわる方々と接していても、その郷土の味や習慣が内在化しすぎていて、何がすばらしいのかとか、可視化できない状態にあるんだなというのも最近わかってきたことです。自分のことって、ほんとうによくわからない、わかりづらいんですよね! 自分の顔を自分で見ることができないように)

運転でいうとわかる方もいるかな。
長距離のときはわっちは福太郎さんにいつも運転してもらっていますが、運転するのと助手席に座ってるのとでは、もう、月とスッポン、すごい違いがあるということです。受け取ることのたいへんさももちろん行為によってはあるかもしれないけれど、なにかをするという行為って、やっぱりものすごいことがふくまれているんですよね。これ、「いい・わるい」の話ではないです(助手席に座り続けるたいへんさみたいなことだってあったりもします
。でもここではそういうことは置いておいて話します)。

前置きが長くなりましたが、消費者から生産者への移行、というのって、時代に逆行しているようで、わっちにとっては、ものすごく新鮮な体感と根元的な体感を含んでいてですね、あたりまえに健全なことだなって、あるときから思っていて(現在も自給自足ができているわけではなく、そういった暮らしへ向かう道の途中なのですが)、、、大勢のひとがそうやって暮らしてきたのだし、生産者であるということは、環境云々にも関係ありますが、なにより自分の精神に健全なのかなと。健全っていうより、なんだろ、純粋にむちゃたのしいんじゃないかと思うわけです。滋味深い行為というか。

だから、消費者もいいんだけれど、生産者、つまりは、表現する側になるって、ほんとうにいいなって思うわけです。なぜなら自己責任がともなうからです。そういうとすごく大げさに感じるかもしれないですけれど、でも、夕ご飯を誰かにつくってあげるのだって、責任ともなっていますよね。お塩とおさとう間違えたら味がぜんぜんちがっちゃいますものね。野菜だって、自分でうえたら、自分で収穫するんですもんね。責任自分で引き受けますよね。

、、、とあたり前すぎることかもしれないのですが、あまりに消費者、あまりに受け手、そこで培われる無意識の怠慢さみたいなものが、そろそろもう、そのままではいられなくなっているのかなと感じるのです。無意識に怠慢って、けっこうつまらないことだったりするのかなと。毎日ごはんつくってもらって食べるのもステキだけれど、つくってあげるほうがアクティブというか。いきいきするというか。胆力つくというか。ボケないっていうか。

おそらく、そういうことを感じての、第2チャクラの話だったのかなと思います。第3、あるいは、第1も関係しているかもですが、表現するときに「責任」というものを伴うということがすごく人の進化に大事なのかもな、そしてなによりたのしいということとつながっているのかもなと思うのです。

と! もうひとつ、佐々くんのインタビュー以外にも、シンクロがありました。それやチョモ山チョモ太郎さんです。

昨日、1か月にわたる九州ゲームツアー(名前違うかもだけれど)の最終日?(うち九州じゃないけど)に、美濃に立ち寄ってくれたんですね。

そうして開口一番、「noteの表現の3つのブログ、すごかったですねー」っていってくれたんです。いやー、昔だったら、ありえないかんじです。(もっと猛烈にぼーっとされていたイメージです)こういう反応、なんというか、いきいきした反応が感じられてうれしかった。

で! ちょもさんは、ご存知の方も多いかもですが、9年ほど勤めた超安定企業へ、ある日突然いけなくなり、うつ状態になり、半年ベッドから起き上がれなくなり、そうして、「福太郎さんにあいにいこう」とある日思い立ち、会いに来て、福ちゃんが「あそびにくれば」って言って、そのまま、エムエム・ブックスにあそびに来るようになって、最初は、ただくるだけだったり、会社にきて横になったり(からだがつらかったから)だったのが、だんだんコピーとったり頼むようになって最後は声のメルマガのお仕事を頼むに至ったという人物です(ゼイゼイ、一気に説明ざます!)。

声のメルマガの録音から配信まで、数年に渡り行ってくださり、その間にフィンドホーンへいって、トランスフォーメーションゲームのファシリテーターの資格をとって、2020年春に、声のメルマガ担当は卒業しましてからに、大好きなボードゲームとともに、ゲーム会でひとりだちした方です。

ずっと、ちょもさんは体調悪かったんですよね。皮膚の疾患がずっとあって、それはつい最近まであったそうなんです。わっちは、ゲームが仕事になっていったら(ちょもさんならではの表現がはじまったら)、皮膚の疾患はよくなると思っていたのですが、ずっとお悪くて(むしろさらにお悪くなっているようで)どうしたものかと思っていたのですが、ここへきて突然よくなった。1ヶ月九州回り続けても昨日元気いっぱいでした。昔なら考えられないことです。(こう、抜ける瞬間があるんですかね。グラデーションでよくなっていって、あるときポンと抜けるようなときがくるというか。そういうきっかけがくるっていうか)


で! チョモさんとのシンクロがこれです!

じゃん!

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