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けものフレンズの最終回がよかった

けものフレンズのアニメが終結した。

ひとことで言えば、とてもよい最終話だった。
かばんちゃんの窮地に駆けつけ、強大な敵に果敢にいどむフレンズたち。クライマックスで流れ出すオープニングテーマには涙を禁じ得なかった。出立のために造られた不恰好な船、別れ、そして再び始まる旅。かばんちゃんの与えた知恵はフレンズの中で生き、そして見事に結実した。ベタといえばそうだが、ここはあえて王道と言いたい。

アニメけものフレンズはかずかずの謎を残して終わった。ジャパリパークの外のちほーはどうなっているのか。セルリアンとは結局何者だったのか。黒く染まったかばんちゃんの手足は何を意味するのか?そして、かばんちゃんがフレンズに授けた叡智は最終的にかれらに幸福をもたらすのか(われわれは知恵や知識があるがゆえの苦しみを痛いほど知っている)。
それらを最終話で全てつまびらかにするのも選択肢としてはありえたし、それを望む視聴者も少なからずあっただろう。それはそれで親切で優しいエンドだったはずだ。
けれどけものフレンズはそうしなかった。かばんちゃんが今知らないこと、これから知るべきことを知る権限は、われわれにはない。そのスタンスを貫き通したある種のストイシズムが、けものフレンズを秀作たらしめたのだと私は思っている。

そして、上に述べたようなあまたのミステリは、決して闇に葬られたのではない。だってかばんちゃんは言ったではないか。——さようなら、ではなく、「行ってきます」と。

かばんちゃんの前にあるのは終末ではない。かぎりなく開かれた未来(ミライ)だ。かばんちゃんはそこに向かって「行く」のだ。そしてそのかばんちゃんと視点を同じくするわれわれにもまた、未来がある。
けものフレンズは答え合わせをしなかった。われわれから未来を奪わなかった。そして思考することの愉しみを——かばんちゃんが物語を通してずっとしてきた、「考える」ということを——奪わなかった。

けものフレンズはまだまだ続く。コンテンツとしても、物語としても。
フレンズたちは今日もどこかで、どったんばったん大騒ぎしていることだろう。

お小遣いください。アイス買います。