人にお金を貸した。

表題どおり。先月半ばのことだ。

あまり親しくない人に貸してみた。貸してくれというので幾らだと問うと、一万円というのであった。

構わないが返せるのかと問うと月末には必ず返す、というのであった。

ちょうど持ち合わせがあったのでわたしが財布を出そうとすると、彼はガスが止まるだの電話は止められてるだのと、今の窮状をせつせつとわたしに訴えた。

使うための金を借りるのか、とわたしは暗澹たる気持ちになった。貸す前から返せないという布石を打たれるのはあまり気分が良いものではない。

返せるのかと再び問うと、返す、という。正直なところ彼の言葉や約束に、信じるに足りるものはなかった。そもそもが、職場の同僚というだけで親しくもない相手だ。

わたしが黙っていると、渋っていると思ったのだろうか。聞いてもいないのに彼は、職場のボスからも借金をしていて、他の人に無心したことがボスにバレたら大変なことになる、と告白した。

どうして自分から弱みを曝け出すのだろう。わたしは溜息をつくような気持ちになった。弱みを曝けることは、金を借りる対価にはならない。まだ金も借りていないのに、自分の首を絞めるロープを差し出しているだけのことだ。

彼は、自分が丸損をしてみせることで、わたしに共犯意識をもたせようとしているのだ。俺はこんなに弱みを見せ、恥をかいているのだからあなたはお財布くらい出すべきだ、という同調圧力をかけてきているように思った。

彼は、居直った物乞いに近い。ナイフを渡して、俺を殺すか金を出すかしてくれ、と迫っているようなものだ。

わたしは彼を憐れむというよりも、自分に腹立たしいような気持ちになった。何故、あんなに簡単に貸してやるなんて言ってしまったのだろう。べつに金が惜しいわけではなかった。貸し倒れるのは嫌だが、貸したきりしばらく返ってこないでもよかったのだ。

二つ返事で済ませようとしたのは、こんなに余裕のない振る舞いを見せられたくなかったからだ。貸せる時は貸すし、貸せない時は相手がどんな事情を抱えてたって貸せない。

わたしは辛うじて溜息をとどめた。

せめて、彼にも一片の自尊心を残してやろう、と思ってわたしは言った。

では、必ず月末に返してね。

彼はわたしに跪かんばかりにして礼をいう。そしてさらに小出しに自分の窮状を話す。同居している恋人が病気になってしまって、だの、アルバイトも日払いのがなかなかなくて、だの。

わたしはますます暗澹たる気持ちになる。金が帰ってこようと来るまいと、この男の性根は好きになれない、と考える。

返せない布石にしてはあまりに馬鹿馬鹿しいタイミングだ。わたしはまだ財布を出していない。舐められているのだろうか。ああ、ああ、見くびられているのだな、と思った。

あまり親しくない相手に金を借りる恥ずかしさを、秘密を曝け出す恥ずかしさで誤魔化しているようだ。わたしは彼を好きにはなれない。

しかしわたしは結局、金を貸した。そんな約束は求めていないのに、彼は繰り返すように、給料日の朝に必ず返すから、と繰り返した。

そして給料日の朝。

彼は会社を休んだ。そして今日まで、ずっと休み続けている。いわゆる無断欠勤だ。ボスが四方に電話して捕まえようとしていたのを見ると、電話が止まっているとの話は真実であったらしい。

そもそもわたしは彼の電話番号さえも聞いていないので、関係のない話ではある。

なんだかなあ、とふと思う。学生時代、レジから、ほんの数万円の金を持ち逃げして失踪したアルバイトの同僚を思い出した。

その時も、その程度の金額で失踪なんて、と思ったものだが、たぶんそれは逆なのだ。失踪することを決めたから、小銭だろうと何だろうと行きがけの駄賃、取れるところからは取れるだけ取って行っただけなのだ。

結局、彼はそのまま会社を辞めるようだ。一ヶ月の無断欠勤で辞めさせられるのか、自分から辞めるのかは解らないが、上の方で何らかの話がついたらしい。

彼は挨拶にも来ないで辞めてゆくようだ。何年も勤めて、そんな幕切れ。呆気にとられる気もするが、こんなものなのかも知れない。

どうしようかな、とわたしは肩をすくめるような気持ちになる。一万円。その金額を失っても目を血走らせずに済むくらいにはわたしも大人になった。でも、恩知らずの餞別にするには十円ですら惜しい。

ボスが彼の思い出を少し話した。困ったやつだったが、まだこれからかも知れないのになあ、とボスは惜しむような、そうでないような声を出す。

あのう、とわたしはボスに声を掛けた。

わたし、彼に本を貸してるんですが。

ボスの眉毛が少しつりあがった。ボスは人物を弱々しく評価する癖があるが、嗅覚は鋭い。わたしと彼が親しくないのもボスは知っている。そしてボスはわたしを、気弱で世間知らずだと評価している。

本、高橋さんそれ本当に本かい。

変な問いかけ。ボスは多分それが金だと疑っている。ボスも幾らかを貸したままにしているようだし、身構えるような気持ちになるのも解る気がした。

ええまあ、と手を広げると、ボスは露骨に安心した顔になった。

彼、わたしのこと何か言ってませんでしたか?

いや、高橋さんのことは何も言ってなかったな。

彼は、わたしのことをボスに話していないのだ。ああ、腹が立つ。わたしは不意にむくむくと怒りが湧いて来るのを感じた。

彼の卑怯さを思った。返せないかもしれないと明言することからも逃げ、返せないと謝ることもせず、わたしから金を借りたことを「なかったこと」にするつもりなのだ。

わたしは、裏切りも、約束破りも、敵意もどんな欺瞞も許そうと思う。人は、どんな酷い事も出来るし、「してしまう」生き物だ。周りのものに影響を与えて変えてゆき、変わってゆく生き物だ。仕方ない。世界に影響を与えない生き方なんてない。

だけど、だからこそ「なかったこと」には出来ない。自分が踏んだ道は、間違っていても正しくても、訂正は出来ない。許したり認めたりできても、取り消せないのが、人生のルールだ。

わたしは、わたしのルールに則ってお金を貸した。付き合いのルールも、借金のルールも、両方破られて下を向いて黙るほど、わたしはお人好しではない。

本を貸しただけのことにしてやろうかとも思っていたが、やめた。

ボスは、すっかり安心したような顔になっていた。実に無防備な表情だ。

あいつも今ドタバタしてるからな、忘れちゃったのかも知れないな。どんな本?あいつと高橋さんと、そんな繋がりがあったなんて、意外だったな。全然親しくないと思ってたよ。いつ頃貸したの?

わたしは自分が怒っていることを自覚して、少し冷静になった。

わたしは彼を侮辱しないように気を付けてお金を貸した。そして今も、わたしが彼から取り立てるのは、お金であって、自尊心ではない。彼のことを罵っても甲斐のない話。ボスに泣きついて助けてもらうことでもない話。

わたしは真実、肩をすくめた。

文庫本なんですけどね。ちょっと手に入りにくい本なので、返してもらいたいんです。

わたしは前置きをして続けた。

「にごりえ たけくらべ」

ボスの顔が一瞬きょとんとしたようになった。わたしは苦笑いして指を立てる。

「二冊」

それから軽い修羅場になったのはまた別の話。わたし関係ないもん。

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