僕たちは麻痺している

知的障害のある人が飯屋に入ってきた。
券売機の前で、ぶつぶつと呟いている。安い定食を買った。

席について彼は大きな声で店員を呼ぶ。申し訳ありません、こちらの定食なのですが領収書を切っていただいても構いませんでしょうか?
ばかに丁寧な言い方と、場を読まない声量に、店の客が振り向く。
たかだか420円なのに面倒なことをお願いして申し訳ありません、と彼は続ける。店員は慣れているのか、あまり間をおかずに対応している。

首をかしげる客がいる。なんだ、障害者かと納得したのか、また自分のお喋りに戻る客がいる。
料理が運ばれてくると彼は、うわあ、と声を上げる。うわあ、このササミカツ、とても美味しそうですね、ほんとうにありがとうございます。ありがとうございます、と店員は割と素っ気ない。
彼が一口食べる。あつっ、あつい、これはとても美味しい。わたしはこのお店はすばらしいと思います。彼は大きな声で喋る。
何のことはない。普通の定食屋なのだ。とびきりのカツレツってわけじゃない。普通のササミカツだ。

僕は斜め後ろの席でトンカツをつつきながら、彼の声に心の中で少しだけ相槌を打つ。
そうだ、きみは何も間違ったことを言っていない。当たり前のことで、本当はきみの方が正しいのだ。

にやにやしている客や、迷惑そうにしている客こそが間違っているのだ。僕らの世界はいつのまにかおかしくなってしまっている。

鼻歌くらい好きなときに歌えばいいし、お腹が空いたら、もう帰りたいなと呟いていいのだ。やりたくなかったらやりたくないって言うべきだし、好きなら好きっていやあいいのだ。
なんだ、へんなのがいるな、と券売機の前の彼に感じた自分を恥じた。
僕たちは麻痺している。どうしようもなく麻痺しているのだ。

何が正しくて何が間違っているかではなく、何が当たり前で何が当たり前でないかで判断するようになっている。
僕はのんびりと飯を食った。彼も食い終え、ばか丁寧に厨房に礼までして出て行った。

僕は出て行った彼を嘲笑ったりするやつがいたら、即座にたたっ殺してやろうと思いながら、しばらく待った。誰も彼に気を留めていなかった。厨房の中で二、三言、ごにょごにょというやりとりがあって、そして、さっきまでのなんでもない飯屋に戻った。

僕は、結局一番の差別主義者は自分なんだろうな、と思いながらお茶を飲んだ。
僕たちは、ではない。僕が麻痺しているのだ。どうにかしなければならない。僕は子に問いかけるだろう。
おまえ、ご飯を食べたらなんていうんだい。おいしかったらなんていうんだい。

僕はもっと書かなければならない。もっともっとたくさんのことを書かなければならない。

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