ぶっこんで始めたコミュニティについての話(2019-08-06収録)

和やかな雰囲気なのでぶっ込んで書くが、僕はあらゆる敵対行為のうちもっとも攻撃的で圧倒的で反撃不能の最上級が「許した」だと思っている。

謝る前に許されてしまっては何もできない。あらかじめ許されてしまっては謝罪すらさせてもらえない。
そんでもって、関係ないように見えるかもしれないけど、コミュニティの死と死をもたらすものについては、中心の座にあるものなのだと思う。

最近、主に僕が顧みていないせいでちょっと停滞しているけどまんが部なんかはまさにそんな感じなのかなと思っている。
まんがを描くのはどこでもできるし、発表するのもどこでもできる。ただ集まってわちゃわちゃするだけのこと。
僕が提供しているのは、たまに飲み会やんぞみたいなノリで、時期を揃えてなんかやろうぜって声をかけることくらい。コミュニティに属してくれている人たちが、散発的に同じようなpopを立ててくれて、池の水が少し循環する。
ただそれは池の水を循環させることが目的ではなく、結果的にかき回されるだけのこと。
池の水質の維持とか言い出すとそれは「水遊び」から「保守点検」に変わってしまう。

結局のところ、僕が楽しくやっているコミュニティというのは「全体の維持」をそんなに重視していないのかなと思う。
アウトローのように聞こえるかもしれないけど、これは実はとても重要なことなのだ。
おもちゃを、遊ぶ場所を、壊さないように大事に使うというのも大事なのだけど、壁に空いた穴を使ってする遊びだってあるし、解体作業を兼ねてメキメキに柱をへし折る遊びだってあるのだ。

その意味では、細く長く、ずっと存続している僕が主宰する秘密結社「後足社」は、「コミュニティの存続だけ」を目的にとっており、そして、もっとも理想的な活動を続けている。
そんで、維持だけを目的としたコミュニティ論ではなく、活動すること、熱量の交換を行うコミュニティについての論。
これまたひとつ、自分の中ではこれがひとつの答えだろうなって思うのは、中心に「主宰」を据えるというコミュニティ。

そこに名前は必要ない。要は「僕と僕のともだち」という最小単位。
名前をつけるということは区別するということ。区別するということは選別するということ。選別するということは…と繰り返していくうちに、どうやって仲良くするかより「どうやって仲良くしないか」を考えてしまう瞬間が来る。
そうなるとそれはもう、友誼が枠組に負けたってことになるのだ。「名前」が関係に口出しするというしょうむないことになってしまう。

なんだっけ。

そうそう。僕が、僕の気質として割と自賛しているのは、この病的な自己愛だ。
僕は僕のことが何よりも好きであり、その意味においてブレない。
「僕に別の誰かと仲良くしてほしくない」が「僕と仲良くしたい」を上回るということは力学的には存在しない。
僕を好きって気持ちの熱量より、別の誰かを嫌いって気持ちの熱量が上回るなら帰れよな、っていう、正気なら真顔で言えないようなことを割と真剣に思っている。
一応補足しておくと、これは別に僕のことを人類ランキングトップ順位で好きで居るべきという意味ではない。

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