教養とは何の役に立つか(2020年の再録)

暫く考えていたのですが、「教養」という得体の知れないものを記述するためには、逆説的ではありますが、この形の問いが一番いいような気がしてます。

教養が役に立つ瞬間。

これはね、確実に「ある」んですよ。そしてそれは、傷ついた人に寄り添う場面でも、意中のあの人から振り向いてもらえるチャンスでもないです。深く傷ついた時でも、何かを見極める場面でもないです。
それは隠さずに言ってしまえば「オメー、教養足りてねえな」という痛烈な一撃を、品のないやつに食らわす瞬間です。

何かのために教養を身につけようという人たちは、漏れなく全員、その瞬間のために努力しています。逆にいうと、この瞬間以外に「教養」が役に立つ時なんてありません。
これを否定する教養人というのは、他の目的のために身についたものが、たまたま教養と呼ばれたというだけの話です。教養使いとはとても呼べません。

教養というのは、己の人生を豊かにしてくれるもののことをすべて指します。わたしは好きではありませんが、パチンコの打ち方も教養のうちです。こちらはわたしの好物ですが美術史もスピリットオブゼンも文学も漫画も教養のひとつです。その、たくさんの豊かな知識の総量が「教養」です。

身もふたもない言い方をすれば、教養があるというのは単に「たくさん知っている」というだけの話です。沢山のことを知っているかどうか。知識が累乗的に増えて行けば、自然とその運用の知識も身につきますから、知るということに限りはないです。知識が増えるほど、表面上は思慮深く教養に満ちた人に見えるようになるでしょう。

また、知識や教養に「これだけあれば良し」というラインはありません。その深度は常に相対的なものでしか測れません。
そして原理的に、身につけた知識は「それが必要になったタイミング」でしか役に立ちません。沢山の準備をして、様々なものへの備えが一定数に達した人がいるとして、そのこと自体が役に立つというのはひとつだけなのです。

「オメー、教養足りてねえな!」

わたしの生まれた村では、相手の教養のなさを嘲るというのは即座に殺し合い開始の合図でした。

しかし、無知を笑われたことに対して鉈で仕返しをするというのは、むしろ己の教養のなさを大声で宣伝するようなものです。「オメー教養足りてねえな!」と指さされた時点でもう、ほぼ詰みなんです。万が一的外れで、自分の方が教養足りてなかった場合、カウンタースペルで肉片の一つも残さず粉微塵になるリスクを負うだけのことはあります。

世に蔓延るものの中で最も醜く、そして即座に叩き殺して害のないものというのは所謂「半可通」というものです。小賢しいもの、通ぶっているもの、偉そうにしているもの。そうしたものを一撃でズタボロにできる力を手に入れるというのは、控えめに言って魅力的だし、努力する甲斐のあることです。

教養があるというのは、本当に素敵なことなのです。

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