肉親が死んだときのこと(2020年収録)

 なんとなく電車の道すがら、ぼーっと書く。
 今日はひとり。
 親子関係とかそういうものについて。ごちゃごちゃしているようでシンプルで、そしてデリケートな話。
僕は他人の親子関係、特に「愛してる」の方には踏み込まないようにしている。
 でも「愛されてた」については時々口を挟む。挟むようになった。
そのひと、別にあなたを愛してたわけじゃないですよ。そう思っていた方が思い出には都合がいいかも知れないけど、それは全部ただの願望ですよ。
たぶん、人の親になったからだという言い訳もいいけど、多分これは僕が生まれ持った性根なんだと思う。向けられる愛を、決して受けるべきでない人間は存在していて、そして、それは決して子供ではない。そういった人間が、向けられる誤解にタダノリして幸福そうな顔をしているのが許せない。
僕はそうした人々をいまでも許せない。
そんな愛し方をする親は、あってはいけない。そんなことを時々思うようになった。愛し方なんて人それぞれなんだろうけど、親なら、子が愛さずには居られない存在でいるなら、子供に対してそれはやっちゃダメだろって思うことを幾つか規定するようになってしまった。
子を持ち、その子を眺めながらいくつかのことを思う。乗っている電車の中は、暖房がついているのだろうけどとっても寒い。僕は今、子とも一緒にはいない。今日はひとり。一人で田舎に向かう電車に乗っている。

 とかく虐待経験者だの、愛着障害だの、なんにせよ、よく喋る、と思う。
こんなことを書くと一気に炎上しそうなものだけど、たぶん僕もそのうちのひとりだ。
黙っていても理解してもらえるなんて思ったことはない。喋っても、理解されそうな気はしない。だけど僕はこうして書き散らかす。
かつての子供たちはしゃべり散らかす。されたこと、したこと、してもらえなかったこと。

 多分、僕は人よりいっぱい小説だの何だのを書いていて、他人の心の機微がわかる人間みたいな顔をしている。
だけど本当のところはさっぱりわからない。わからないというより、薄い、というのが正しいんだと思う。
ほとんどの人は、僕にとって昆虫と同じように見える。刺激に反応するだけの、半ば自動的な人格。個体差という傾向だけはあるけど、なにひとつ予測の範疇を出ないリアクション。
僕は現実の人間の機微なんてわからない。

 こんな人間がいたら、人間らしいのになあ。
より人間らしく生きるというのは、こういうことじゃないかなあ。
そんなことを考えながら人物を描く。
人間らしくすることっていいのは、こう感じだろうなあ/こうであってほしいなあ、というただの願望投射が、僕の書くものだ。

 思うのだけど「愛される」というのはとても特別なことなんじゃないだろうか。
こんなことを言うと、当たり前だろバカって言われちゃうけど、でも、これはつまり「愛さない」のが当たり前のことなのだという意味だ。
傷つけあい、殺し合い、蹴落として、踏んづけて、隣に立つやつをズタズタにするように僕たちはあらかじめ設計されている。

 その当たり前を「当たり前」にこなしていると何だか非難される。難儀な世界やでとは思う。
ただ、いわゆるノーマルというのは、少なくとも与え合う優しい世界ではないと思うのだ。
「ありがとう」という言葉と「恩知らず」という語はきっと同時に生まれた。そんなことを思う。

 電車の中はとっても寒い。暖かい靴下を履いてくればよかったな、と僕は思う。

 無関心、というのはデフォルト、スタンダードだ。

 人類種はお互いに手を伸ばさない。通常において、それが効率的でない限り温め合ったりしない。

 だからこそ、記憶に残る。
自分のパンを分けてくれたひと。寒いのに毛布を貸してくれたひと。あるいは、敵意をむき出しにした威嚇を、受け止めてくれたひと。
それがなんらか別の理由に因るとしても、あるいは、ただの偶然だとしても大事に記憶に残し、とても素晴らしい、愛された体験だとしまい込む。

 バグだよなあとほんと思う。
受けた方は受けたことを決して忘れない。
それが傷であっても、愛であっても。

 そんでもって、記憶の中に、受け止め切れないほど傷が増えるといつからか、これは実は傷ではなかったのだ、なんて言い出す。
あるいは、相対的に数の少ない愛の方を持ち上げて、これはすごく凄いことなのだ、なんて言い出す。

 同じOSと同じメーカーのハードを使っている以上、僕は自分の記憶や自分の印象をあまり信じない。
最終、それだけを頼りに動かなきゃいけないけど、信用はしていない。
じゃあ何を信用できるのかってことだよな。

 結論から言うと、なんも確かなものなんてないよなという。

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