思い立ち九州。

ふと思い立って東京脱出。ゆく宛はなし。目的もなし。そこに警句も、感傷もなければ九州。

朝一番の飛行機に乗って九州である。

眠たい目を擦り地下鉄、切ったばかりの髪を侵入風になぶらせて午前五時。

社会人になってよかったと思うのはこんなときだ。きちんと働き、見合うかどうかは審議が必要にせよ、真っ当なお金がわたしの口座に残っている。仕事は楽しいことばかりではないけれど、嫌になるほどのことはないつもりだ。

今では二ヵ月に一度は小さな旅行にだって行けるし、安売りのであれば、服を前に途方に暮れることもない。わたしは今、とてもみちたりていると思う。

わたしは空港へ向かう地下鉄の中、なぜだか学生時代に聞いていた歌を思い出していた。高校生の頃、どこへ行くにも制服のスカートだった頃、無性に欲しくなって買ってしまったCDの3曲目だった。まるで飛び降りるような気持ちで買ったのに、予想外れで少しがっかりしてしまったのは懐かしい思い出だ。それでも、自分のお金でCDを買ったということが嬉しくて、ずうっと聞いていた。ずっと聞いていたら、いつの間にか好きになっていた。人生は、そんなものなのかもしれない。

わたしは懐かしい気持ちを思い出し、地下鉄は空港に着いた。

初めての搭乗手続き、初めての空港ロビー。わたしは外を眺める。初めての景色を眺めては思い出していた。

眠っている間に九州は熊本へ到着した。目を覚ますと目の前には平らな土地が広がる。わたしは32800円を支払って来たことのない土地へと転送された。

目的もないので空港内をぶらぶらする。頭の中で待ち合わせる人を想像する。熊本の地にわたしを出迎えてくれる人はいない。わたしの世界はとても狭い。高校までの友達、あとは仕事を始めてからの、狭い町の、顔なじみばかりだ。嫌ではないが、時折判らなくなる。

わたしは自分がおそろしく軽装だということを思い出し、雑誌を立ち読みしながらくすくす笑った。昨日までに一度だって想像しただろうか。用もなくこんな遠くに来るなんて。レジの、少し四角い顔をした女の子が怪訝そうにわたしを見る。

ごめんなさい、違うんです、TVの番組表がおかしいんじゃないの、もっと個人的なことなんです。なんだか浮つくくらいに可笑しい。

ともあれ思い切ってわたしは空港のドアを出た。

タクシーに乗った。なるべく悲壮に見えないように(実際悲壮ではないし)、あてのない旅だと思われないように、快活に告げた。

「熊本城、やってください!」

運転手は話好きで、土地のなまりが面白かった。どうやら今、ちょうど熊本城ではお祭りがやっているらしい。来年はよんひゃくねんさいだけんね、と運転手は言った。来年もまた来るつもりなんです、お城好きなんです、と少しお世辞を言うと、ひどくうれしそうな顔になった。

走れども走れども着かないタクシーに心配になり、どのくらいかかりますかと問うと、もう十五分くらいだという。お金の話だとも言いにくく、結構遠いんですねと告げるにとどめた。この人からわたしはどんな風に見えているんだろう。考えて少しおかしくなる。

結局、わたしは熊本まで来て、何もせずに帰った。お土産もなし。熊本城で手持ち無沙汰にご飯を食べて美術館を覗き、バスに乗って空港に戻る。半日もない滞在時間。

自分が遠くまで出掛けた証拠も残さず、チケットの領収書も熊本空港に捨ててきた。これはまさに秘密の、無意味な秘密の旅。

そして東京への飛行機が飛び立つ。時刻は16時過ぎ。東京に着く頃には日が暮れていた。

本当に、何があったわけでもない。わたしは全くの気まぐれで出掛けたのだ。嫌なことがあったわけでも、変えたい何かがあったわけでもない。

中学生の頃、募金箱を持って歩いたターミナル駅を思い出していた。低い雲、低い空模様、わたしはあの頃の気持ちを忘れたことはない。どこにも出口がないようで、どこまでも地続きのように思っていた日常。飛行機に乗ればどこかへ連れていってくれると思っていた。

あんなに憧れていた飛行機に、わたしは今、乗っている。窓から外を眺めている。わたしは今、日常に帰るために、飛行機に。

雲海を抜け、高度を落とす。傾く飛行機の窓から見えるのは、きらきらと光る地上だ。人のいるところ、昨日と代わり映えのないところが光っている。

赤や白の光に目をやられ、わたしは不意に敬謙な気持ちになった。ひらめきがわたしを打った。

わたしが戻って行くのは日常だ。日常は、眼下に広がる光だ。わたしは今、光の中へ還ってゆく。わたしの周りにあったものは、あらかじめ、こんなに、美しかったのだ。

わたしは頬杖をつき、しばらく地上を眺めた。きっとこの美しさを忘れないようにしよう。ずっとこの風景をしまっておこう。

そして飛行機が着陸する。わたしの秘密の旅も終わる。

地上に降りたって少し逡巡し、空港からわたしは友達に電話をかけた。不定期な休みの友達だったが奇跡的に呼び出すことに成功し、わたしたちは品川駅のオイスターバーで夕食を食べることになった。

食べながら時折にやにやと笑うわたしを、彼女は訝しがる。

わたしは手を広げた。

「広島の牡蠣と北海道の牡蠣が同じお皿に乗る時代なんだよねえ」

「アメリカの牡蠣もね」

「ワールドワイド皿だ」

「皿」

わたしたちは、しばしくすくす笑う。わたしは秘密の旅を思い出す。向かいの友達は屈託なく微笑み、つまむように牡蠣の殻を持っている。

「ねえ沙織、文明ってすばらしいね」

笑いの途切れた隙間でワイングラスを掲げると、友達は再びにんまり笑って牡蠣をグラスに持ち替えた。多分、友達はわたしとは違うことを考えている。わたしの頭にあるのは雲の上を通って九州まで連れていってくれるシステムだ。彼女が考えているのはワールドワイド皿のことだろう。ふたつは似ているが違う。違うがわたしたちは繋がっている。

友達は芝居がかった仕草でワインを揺らす。

「まったくすばらしいね」

彼女の声を聞き、わたしは、このすばらしい日常に帰ってきたことを実感した。わたしはこの平凡な世界に感謝する。

わたしはわたしのことを、わたしを取り巻くこの世界を、誠実に、深く愛せている。

そんなことを考えながら飲み干すワイングラス。日常はきっと明日も美しいだろう。乾杯。

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