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共感されないであろう孤独の裡をしたためる

たぶん、共感してもらえないだろうな、と思っていることを試しにしたためてみる。

これまでいろんなことに手をつけてきて、どれも続かなかった。理想が高く自分に厳しい性格も相まって、ろくに続かない自分が、何一つ物にならない半端ものだとずっと思っている。器用貧乏という言葉がぴったりだ。

そんな私に唯一残ったのが「言葉を綴ること」だった。「書くことだけは、好きだから続けていられた」……と、普通なら続くところだけれど、私の自覚としては、書くことは別に好きではなかった。でも、書かずにはいられなかったから、結果として書くことしか残らなかった、という方がしっくり来る。

これはすごく失礼なことだとも思うから、ずっと誰にも言えずにしまいこんできた本音だ。

自分が喉から手が出るほど欲しい技術や才能を持った人が「自分はこれを望んで手に入れた訳じゃない。これしか残らなかったからやってる」なんて言い出したら、昔の私なら「じゃあそれくれよ」って言ってキレてたと思う。

謙遜も過ぎれば皮肉だ。書くこと以外もそれなりにそつなくこなせてしまう(ように見える)から、それしか残らなかったなんて言えば場所によっては袋叩きだ。

だから、見放されるのが怖くて、ずっとずっと言えなかった。けれどやっぱり、言わずにはいられなかった。どうしようもない奴だ。

でも才能っていうのは、ついやってしまうこと、続けてしまったこと、続けざるを得なかったことだ。だから才能は必ずしも望んだものであるとは限らない。人が見れば輝かしい貴石が、私にとっては醜い内臓のように見える事もあるのだ。

だとしたら、「こんな才能が欲しかったわけじゃない」と嘆くことはいけないことだろうか。

自分は平凡で無価値だとずっと思い込んできた。生きていることの根底に染み付いた罪悪感があった。でもそんなのは嫌で、私は私でない何者かになりたかった。親に、周囲に、理解されたくて、認めて欲しくて言葉を尽くした。その結果培われたものだった。

それが才能だと気づいたのは「価値と才能の再定義」をしたからだ。無価値な自分を変えたくて、それでも変えられなかったから、全てを削ぎ落とした先にあるものを見据えようとした。

その結果、望まぬものや隠したかったものが才能だとわかった。価値を高める努力はしなかったけど、価値を見つけるための探求はひといちばいやったつもりだ。

だから私は、才能なんてその気になれば捉えようでいくらでも見つけられると思っている。だから才能を嘆いた時に、ろくに探しもせずに「あるだけマシ」だなんて言われると、やっぱり腹が立つ。甘えんなって思う。お前にだって、気付いてないだけで才能はあるんだって、凡人のふりしてんなよ、孤独が怖いだけなんだろって胸ぐら掴みたくなる。

何かを作り出すだけが才能じゃない。毎日の生活を送れることも、何かを続けられることも、人と気軽に話せることも、大多数に迎合して生きられることも、衝動的なことも、言葉を読むことも、考えることも、当たり前のことなんて何一つなくて、自分自身を因数分解すれば必ず見つかるんだ、その人だけの才能が。それが、普段は弱点や欠点、コンプレックスだと認識していることであっても。

謙遜と自己卑下が美徳な日本では、平凡を嘆くことは共感されやすいけど、才能を嘆くことは共感されにくい。けれどそんなのはおかしくないか。与えられたのが望まぬものだった、という嘆きの本質は同じなはずだ。

わがままだとか贅沢だと言われることもわかってる。その気持ちだって理解出来る。私だけが苦しいなんて思うのは、想像力の欠如だ。

それでも私はやっぱり、心が折れそうになると思ってしまうんだ。

「私には書くことしか残らなかった」って。
「もっと普通に生きていたかった」って。

文章が書けるようになりたくて、書いたわけじゃない。そういうものは他にあった。目が眩むほどの強烈な憧れがあって、手を伸ばそうと必死に努力して、その果てに諦めたものがあった。

けれど言葉を紡ぐことは当たり前のようにそばにあって、誰に見られなくてもそうしなくては生きていられないような、自分の中身と癒着してしまっている、そういうものだった。

noteは書くことが好きな人が多い。書くことに憧れて参加する人もいるだろう。書くことを賞賛する雰囲気すらある気がしている。

でも、私はそういう空気を見ていると、なんだか寂しい気持ちになってくる。

私にとっての「書くこと」は、そんなに楽しく穏やかじゃなかったから、ただ純粋に書くことの楽しさを取り上げ謳う、その想いに共感できないことが寂しい。生活を犠牲にしても書かざるを得なかったブレーキの壊れた心の残骸に対して、「憧れています」だなんて言われると、喜びの光に照らされた心の片隅に、静かに暗い影が落ちた。

書くことが当たり前にそばにあったからこそ、文章の可能性を感じることもあれば、言葉の不確実さや自身の無力さに絶望する事もある。それでもこの世界に自分の存在を、価値を証明したくて、見て欲しくて、知って欲しくて、その方法がこれしか思いつかなかったし、これしかなかっただけ。こんなものは、憧れるようなものじゃない。

私の観測範囲には、読んだ人がほっとするような記事が溢れているけど、私はほとんどそういう記事を書かないし、書けない。だから正直、なぜ読んでもらえているかわからなくなる時もある。

ほっとする記事は書けない代わりに、魂が宿ると、引き込まれると言ってもらえることがある。私は当たり前のようにやっているけど、そう簡単にできるものでもない、内臓を抉って差し出すような行為だと言われたことがある。実際、最近は自分を大切にできるようになったのか、前よりできなくなった。

ただ、誤解しないで欲しいのは、私自身「書くことが嫌い」な訳じゃない。

書いたものを評価してもらえることは素直に嬉しい。誰かの血肉になるような文章が書けたという手応えを感じられたこともある。これは得難い経験だと思う。言葉が紡げてよかったと心から思うこともある。それがたとえ勘違いだとしても。

そして、ネットに言葉を流す以上、コンテンツとして消費されることもあるんだと学んだ。心ない言葉に傷つくこともある。自分でペースを見誤って、削れて。それでもやめられない。私にとって書くことは、好きとか嫌いとか、そういうものでくくれない場所にあるんだ。

ただ。評価の裏側で燻っている気持ちもあるということを、書かずにはいられなかった。晒さずにはいられなかった。

最近、私が書いていることの目的や、もたらされていることを改めて確認する機会があって。行動とちぐはぐな心の底の気持ちを、ちゃんと書き出しておきたかった。

でもね、多分こんなことを思ってしまうのは、不安だからなんだと思う。ずっと自分に自信がないだけなんだ。評価の軸を外に据えなければ、こんなふうに悩むこともないはずなのに。だからこれは、私の心の問題。

たまに私の文章を読んでいて不安になる人がいると思う。そんなに感情を掘り下げなくてもいいじゃないかって。それは人として真っ当な感性だと思う。

安全圏を保ったまま書くことは全く悪いことじゃない。だってそうしなければ、書くことに日常を侵食されてしまう。優先順位を履き違えてはいけない。

書くことは手段のひとつでしかない。向き合い方は人それぞれ。私が私を晒すことと、誰かが自分を晒さないこととは別の問題だ。

それに私も、あくまで「今は」晒さずにはいられないだけだ。だいぶ昇華がすすんできたから、こんなふうにさらけ出すような文章の割合は以前に比べれば減ってきている。

私は誰かが言葉にできないことを代弁している訳じゃない。私は私の考えたことを書いているだけ。私にあなたの人生を託さないで欲しい。あなたがどう書くべきかどうかは、私ではなくあなた自身が決めるべきことだ。

そして最後に、私は望まぬ才能だからといって「いらない」とは言わない。むしろ奪わないで欲しいとすら思っている。私にとって言葉を紡ぐことは、与えられ、知らず培ってきたもの。必要だから最後まで手放せなかったものなんだから。

それが自らの武器なのだという折り合いはついているし、それを喉から手が出るほど欲する人がいるというならば、きちんと磨くのが私のやるべき事だとも思う。

だからこれは、ただの弱音。この言葉に意味なんてない。けれど、私はいつも前に進むために弱音を吐いている。悩みを言葉にすれば刻みつけてしまうから、逆に囚われるという人もいるだろうけど、言語化は私には必要なことなんだ。

誰も私を正しく傷つけてくれないから、自分で自分を傷つけて、中に溜まった膿を出す。そして、膿の奥に埋もれていたシンプルな気持ちを取り出す。

そろそろ不安から共感を求めるのはやめにして、本当に言いたいことを怖れずに書きたい。たとえ共感されなくても、私が楽しいと感じたこと、苦しいと感じたことも、他の誰でもない私のために。もっと、もっと自由に書けるように。

その壁を壊したいんだ。私が、私を見つけるために。私自身が変わるために。

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