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自分と向き合い始めたのは「逃げ」からだった

わたしは「自分と向き合う」ということをよくnoteでも書きますし、今でも続けています。

そのおかげで前向きになることも増えたし、自分の人生の課題を意識することも増えました。やってよかったと思っています。

けれど、最初から前向きな気持ちではじめたわけじゃありませんでした。

むしろ向き合うどころか、目を背けてきたり、逃げた結果が「自分と向き合う」という行為に繋がっているだけ。

ほんとうにただ「逃げ」でした。

ここから書くことは過去のどん底期に考えていたことなので、読んでいるとつらい気持ちになる部分もあるかもしれません。そのことを念頭に置いたうえで読んでくださるとありがたいです。

わたしは、自分がしあわせな家庭に育たなかったので、自分に子供ができたら絶対に虐待してしまうと思っていました。

しかし、旦那の両親からは子供を産んで欲しいという圧がすごいです。わたしは彼らにそれを言えないでいますし、やさしい人たちだけど、旦那の実家は苦手です。

旦那にも精神的に依存していました。今よりもずっと。旦那は唯一わたしに安心を与えてくれる存在で、実質親代わりのようなものですらありました。でも、きっとこの人はわたしよりも先に死んでしまう。

独りで寂しく死ぬことは、別に構いません。そうなったなら、それが当然の報いだとすら思っていました。ただ現実は、旦那が死んだあとも生きていかなくちゃいけない。その日々を思うと絶望しかありませんでした。

わたしは旦那の実家に馴染めず、甥姪ともそこまで仲良くありません。子供も作らずにいれば、わたしが老いる頃には彼らに迷惑をかけることになる。

わたしはひといちばい嫌われるのが怖いと思う人間でした。だから、人に迷惑をかけたくないという思いも、同じくらい強かったです。生きているだけで迷惑をかけるのだから、死んだあとくらいは迷惑をかけたくない。と思っていました。

そんなわたしは、いつか迎える死のことばかり考えていて、自分をあえて絶望に叩き込むように、遺品整理や孤独死を処理する仕事の方の手記を読み漁りました。

人が死んでどれくらい経ったらどんな状態になるのかとか、遺された人にどれだけ負担をかけるのかを見ました。それを読んでなおのこと、ちゃんと身辺整理していつ死んでもいいようにしてから死にたいと考えました。

そのためには一人で生きていけるようにならなければいけない、そう強く思いました。

たぶんこれが、自分と向き合おうと思ったきっかけだと思います。そして、もう一度書きますが、これはわたしが四年前のどん底時代に考えていたことです。だから今は少し違います。

今思うと「わたしは誰からも受け入れられないから、一人でも平気で生きていけるようにならなきゃいけない」っていう呪いだったように思います。

つまり「受け入れて欲しい」と勇気を出すことから、一度逃げたんです。けれどその逃げは悪いことではなかったのだと思います。

勇気を出すにはエネルギーがいる。武器がいる。それを養うため、もう一度見つけるための逃げでした。

上の考えに、明確な答えは出せていませんが、たぶん旦那が死んでもなんとかなるんじゃないか、くらいには思えてます。

だって未来のことは、わからないから。時代の変化はめまぐるしい。一年先すらわからない。どんなきっかけで、家族と付き合い方が変わるかもわからない。家族じゃなくて赤の他人が助けてくれることもあるかもしれない。

この数年でようやく。世界は、わたしが思っているよりもずっと広いことを知りました。

だから、きっかけはなんであれ、自分と向き合ってきたことは無駄じゃなかったと今思っています。


今を生きているのに死について思うことは、不謹慎だという声があるかもしれません。旦那にもこのことを話して寂しい思いをさせたことがあります。死を怖れて未来に絶望する日が今でもないわけではありません。

けれど、今でもわたしはいつか訪れる死について考えます。

これはたぶん一生変えられないんじゃないかな。わたしが前向きになったとしても。死とともにあるのが絶望か希望かが変わるだけだと思う。

この記事で「理想の死に様を教えてくれ」と言われて考え、こうコメントしました。

わたしの理想の死に様はね、放浪して倒れた先で自然に分解されて土に還ることだよ。
大きな流れの中に還りたい。
死んだあとこの空っぽの入れ物が何かの糧になるならそれでいい。
無駄に文明に燃やされて灰になる、墓石の中に閉じこめられるのはやだな。
死んだら潔く魂は霧散させて、次の輪廻にいきたい。

実は4年前のメモにも、似たようなことが書いてありました。

けれどやっぱり、どうせ一人で死ぬなら、自然に還るところで人に迷惑をかけずひっそりと死にたい。

あんまり変わってませんね。

これが温かく幸せな死に方ではなかったとしても、もしできるならそうありたいという理想です。相反する気持ちとして、大切な人にあたたかく見送られたいという思いもあります。

noteを書いて読んでもらって、知り合った方とお会いしたりもして。この頃に比べれば、自分が自分であることの実感や、生きてることの安心感は少しずつであれ育ってきているように思います。

それはきっと人に素直になるとか、甘えるとか、そういう経験を少しずつ増やしていくことで、できてきたのだと思うんです。

考え方も以前より柔軟になりました。けれど、行き着く先は案外変わらないのかもしれない。

「人と繋がりたい」「孤独に死にたい」この葛藤とは、一生付き合っていくものなのかもしれません。

結局、何が言いたいかと言うと、もし今わたしが前向きに頑張っているように見えたりとか、あるいは前向きに頑張っている人が遠い存在に見えたとしても、それは必ずしも最初から前向きで希望のあるものだとは限らないということ。

絶望から生まれる希望もあります。
昼と夜が巡るように、明るい/暗いだけの人生はない。

わたしを苦しめているのが、わたし自身だったとしても。そんなわたしもまるごと受け止められるわたしになりたい。

はじめは逃げや焦燥感からだったけれど、今はそんなふうに思っています。

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