学校に行けないまま大人になったけど、なんとか生きているから #8月31日の夜に
わたしは不登校だった。小6から保健室登校、そこからは中学高校とほとんど行けなくて、まともに行けたのは専門学校だけ。
不登校と言えばいじめ問題が浮かぶ人が多いと思うけれど、わたしの場合はただなんとなく、学校に行くのが怖かった。
わけも分からず行けなくなることを家族には理解されなくて苦しかったし、自分自身でも「弱い奴だ」と責めていた。毎日死にたかったし何度も死のうとした。今でも死にたいと思うことがある。
けれど、今もなんやかんや生きている。
確かに苦労はしたけれど、30歳を迎えようやく、辛かった過去を振り返って、なんとか前向きにとらえ直すことができるようになった。
だからせめて、「学校に行けないまま大人になった奴」が何を考えているのかを綴ることで、誰かのヒントになればいいなと思う。
まずはわたし自身の経験を語るけど、かなり長い上に興味がない人にとってはどうでもいいことだと思うので、もしよければ下の目次から「大人になってから苦労したこと」から先だけでも読んでもらえると嬉しい。
はじまりは保健室から
小6のとき、教室に入れなくなった。
きっかけはあまり思い出せないけど、苦手な先生がいて、その先生の授業が嫌で休み時間に保健室に行き、そのまま体調がすぐれないと言ってベッドを借りた。
その後も、朝起きられなくて遅刻した時は、教室に行かずに保健室で過ごしたりしていた。そうして気がつくと、教室に戻りづらくなっていった。
幸いだったと思うのは、教室に入れないことを、担任の先生が理解してくれたことだ。この頃からわけも分からず心が不安定だったけど、先生がどこまでもわたしの味方でいてくれたから、なんとか生き延びられた。
けれど、わたしは最後までほとんど教室には入れないまま卒業を迎えた。
中学最初の夏休みが明けても
中学校に入学して、初めのうちは教室に入ってみたりもした。
けれど教室で聞こえる周囲の声や音が気になって、まるで感情が流れ込んでくるように感じた。
後ろの席の男子の足が椅子に当たるだけで「この人に椅子を蹴られている。わたしは嫌われている」という被害妄想に頭の中を支配されたりと、とにかく「教室にいること」が辛かった。
そしてそのうち、制服を着るだけで身体が震えるようになってしまった。
いじめもないのに学校に行けなくなることを、家族は理解してくれなかった。毎日のように親とは喧嘩ばかりしていた。家にも学校にも居場所がなくて、心を病んでいった。
そして迎えた最初の夏休み。始まった頃は少しだけ気が楽だった。みんな学校に行っていないのだから、昼間に家にいたって、近所をふらついたって、おかしな目で見られることもない。
しかし、夏休みが終わりに近づくにつれ、その気楽さに反比例して、苦しい気持ちの方が増して行った。それこそ8月31日の夜に命を断ち、9月1日の朝を迎えたくないと思うほどには。
親には「夏休みが終わったらちゃんと学校に行けるか」と聞かれ、わたしは「行けると思う」と答えていた。
実際のところ、根拠はない。焦りから来る希望的観測だった。9月になったらいい加減学校に行かなくてはいけない。でなければ見捨てられる。ダメ人間の烙印を押されてしまう。そう思っていた。
けれど、夏休みが明ければ急に学校に行けるようになる、なんてミラクルは起こるはずもなく。それどころか、その頃から眠れなくなり、食べ物を全部吐いてしまうようになった。
細かな時系列は曖昧だけど、時折ふと思い出す風景がある。おそらく夏休みの終わりか、明けてすぐの頃。眠れなくて徹夜をした日の早朝、自転車を走らせてコンビニに行った時の朝焼け。ちなみにコンビニに行った理由は、唯一食べられたヨーグルトを買いに行くため。
家に帰ると勤務地が遠いため毎朝早くに起きている母と台所で鉢合わせた。母は朝ごはんとして、お弁当に入り切らなかった卵焼きを食べさせてくれた。けれどわたしは、買ってきたヨーグルトもろとも、それを全部吐いてしまった。
結局、学校には行けないままだった。
フリースクールという「居場所」
病んだ心と身体で、学校に行けないまま始まってしまった二学期に、母がフリースクールの話を提案してきた。そこは市の教育委員会が運営する不登校の子どもたちの受け入れ施設で、そちらに通えば学校の出席日数になると言う。
わたしは言われるがまま、母に連れられフリースクールに行った。はじめは誰とも馴染めずひとりで過ごすことが多かったけれど、一人の女の子がわたしに声をかけ、輪の中に入れてくれた。幸いその子とは共通の趣味もあり、あっという間に仲良くなった。
そこには、ひとくせもふたくせもある子が集まっていた。はみ出しものばかりの空間は、居心地が良かった。
いじめがきっかけの子もいたけれど、わたしのようになんとなく行けなくなった子や、自分から行かないことを選択した子もいた。学校に行かない(行けない)ことに、さまざまな背景があると知れたことで、「自分はおかしくない」「ひとりじゃない」と思えた。
また、フリースクールのスタッフは、基本的には自由に過ごすことを許してくれた。遊ぶ時は全力で付き合ってくれ、勉強を教えてほしいと言えば教えてくれる。喧嘩をすれば仲裁に入り、危険なことをすれば叱る時は叱る。それはわたしが親に望んでもついぞ与えられなかった接し方だった。
スタッフにも子どもたちにもそれぞれ個性があって、中には考え方が合わない人もいて衝突したこともあったけど、良くしてくれるスタッフや友達のおかげで、わたしはこのとき初めて「安心できる」「居場所がある」という感覚を得ることができたのだと思う。
もちろん、フリースクールに来たら誰もが必ず楽しく過ごせるとは限らない。わたしが通っていた時も、馴染めないままフェードアウトする子もいた。けれど少なくともわたしにとっては、ここに来られた事が大きく価値観を広げてくれた。
監視される受験勉強と母親への感情
フリースクールは楽しかったけれど、家では息が詰まった。
不登校の子の親にとって、気になることのひとつが勉強の遅れだと思う。うちは両親とも高校教師だったからなおさらか、特に母の強迫的な感じはすごかった。
毎日のようにつきっきりで勉強を見られていた。文字通り、終わるまでつきっきり。
友達や周りの大人に「専属家庭教師みたいで羨ましい」とか言われた事もあったけど、あの関係はそういう感じじゃなかった。
同室で別のことをしていて、わからないことだけ聞けば答えてくれる、みたいなソフトな距離感じゃない。進み具合を完全にコントロールされ、一問一問手取り足取り、少しでも別のことをしようとすれば怒られ、横にいて片時も目を離されない。これを全教科かつ毎日数時間。もはや監視だった。
さすがに教師なだけあって、教え方は巧かったけれど、それを差し引いてもあまりに苦しかった。わたしも従うばかりでなく、むしろ反発ばかりしていたので、もう毎晩、喧嘩に次ぐ喧嘩。
時に「アンタが高校に行きたいと言ったから受験勉強を手伝っているのに、やる気がないならやめてしまえ」と言われた。
「母親の時間を奪って付き合わせて、自分の言い出したことに責任も持てないわたしが悪いんだ」そう思ってしまい、胸にモヤモヤがたまるものの、もう何も言い返せなかった。
でも、本当は、心の底では高校に行くことなんてどうでもよかったんだと思う。ぶっちゃけ勉強なんてしたくないし、遊んでいたいし、好きなことをしていたい。
でも両親は口を揃えて「高校に行かなくては将来ろくな仕事に就けない、大学は出ておけ」と言っていた。
「アンタがやりたいと言ったから」と、わたしがやりたいと言ったことにされていたけど、「やりたいと言わざるを得ない空気」を作ったのは親の方だ、とも思う。
言いたいことをハッキリ言えなかった自分も悪かったかもしれないけど、そんなことを言えばキリがない。子供の頃は身近な大人の言うことが世界の全てに聞こえ、従わなければ見捨てられると思い込んでしまうのだから、反発など、どだい無理な話だ。
通っていた精神科の主治医はわたしが不登校になった原因を「母の愛情不足」だと言った。それを聞いた母は、勤務時間をフルタイムからパートに変え、わたしと共有できる時間を増やした。フリースクールに行くときも、わたしを近くまで送ってくれるようになった。
でもわたしは何故か、ちっとも嬉しくなかったし、わたしのことをわかってくれないと思っていた。
そんな母のことを正直嫌いだとも思っていたのに、何故かわたしが選んだ高校は母が教師をしている学校だった。
その高校を選んだ理由はいくつかある。地元から遠いから、同中の子がいないし、制服もかわいい。フリースクールのひとつ上の友達もそこに進学していた。
でも、本当に母が嫌いなら別の高校を選べばいい。他に条件はあったにせよ、たぶん、わたしは何より母に認めてほしかったんだと思う。
わたしは母が大嫌いで、それでも大好きで、一番愛されたかった。わたしはいつしか、母との境界線がわからなくなっていたんだと思う。
当時は言語化できていなかったけど、わたしはきっと無意識のうちに、母のために学校に行けるようにならなくてはと思うようになっていた。
本当はそんなものが欲しかったわけじゃなかったけれど、母のためにその本音は封じ込めた。その矛盾は、社会人になるまで心の底に封印された。それはなんとか解放されるのだけど、それはまた別の話。
高校でも教室に入れず、通信制へ
母のいる高校に進学したため、朝は強制的に母と電車通勤になるため、物理的に学校には行けるようになった。
けれどやはりここでも教室にいることができなくて、気付けば相談室に入り浸っていた。
学校生活はむしろ楽しかった。フリースクール時代の友達も相談室に来てくれたり、同学年の相談室に来る子とも仲良くなれた。
けれど高校は、楽しいだけでは卒業できない。中学の頃と違うのは、単位が取れなければ留年するということ。授業に出ていなかったわたしは、進級するのに単位が足りなかった。そこで学校側からは通信制を提案された。出席日数は足りているので、通信制に行けば2年生に進級できるという話だった。
わたしは言われるがままに、通信制に転校することを選択した。偶然にも同じ時期に転校する友達もいたし、卒業見込みが確実な方にしたかったからだ。あと、被害妄想かもしれないけれど、通信制を勧めてきた教頭から「厄介払いがしたい」みたいな雰囲気を感じて、この学校でもう3年頑張るのは無理だなと思ったのもある。
通信制は週に1〜2回のスクーリング(登校日)のみで、必須と自由の違いはあるけど、基本的には選択した科目の授業に出て、配られたレポートを郵送で提出して、定期的に行われるテストを受けて点数を取れば単位が認定される。わたしが通っていた高校は、学費も驚くほど安かった。
勉強のレベルは普通科の高校に比べれば低いため、良い大学に進学したければ相応の努力は必要だけど、とりあえず高校卒業の資格が必要という人には最適だと思う。もちろん、選択授業次第で高いレベルの授業も受けられる。
通信制には、わたしみたいに高校生の年頃の子もいれば、4〜50代の主婦さんや70代のおじいちゃんもいたりと、生徒の年齢層は幅広かった。中には夜の仕事っぽい格好の人もいた。
高認(高卒認定試験)を取ることで単位の足しにしたり、3年生で大学に行くことも可能だった。一緒に転校した友達は3年生で一足先に大学に進学し、わたしは4年生で卒業した。
ちなみにスクーリングがない日はアルバイトをしていた。
自分でも驚いたけど、学校は行けないのに働くことはできた。そこでは自分に役割が与えられたし、責任と目的があったからだと思う。同じく「働くため」という目的があった専門学校にも、なんとか行くことが出来たから。
働くことに自分の役割と価値を見出すことで、わたしの心はそこそこ安定していった。
大人になってから苦労したこと
こうしてわたしは、ほとんど学校に行かないまま、大人になった。10代はとにかく必死だったので、苦労をしたといえば20代になってからの方がキツかった。
学校に行かなかったことで感じた苦労はしいていうなら、体力と人間関係。
まず体力について。学校は、体育の授業に真面目に出ているだけでもそこそこの運動量になる。おまけに10代は男女ともに身体が作られる時期だから、運動は大切だ。運動系の部活に入れるなら言わずもがな。
今の私は本当にほとんど動いてないから、正直体力があんまりないし、身体の使い方もわからない時があるから「体育まじめにやっとけばよかったかな……」と後悔することはたまにある。
そして、多くの人が悩むだろうし、ネックになると思われるのは人間関係。
学校というのは、自分と合う人合わない人をごちゃまぜにして一緒くたに詰め込まれる場所で、言うなれば「社会・集団の縮図」であり「予行練習場」でもある。
だから学校生活を通して、「苦手な人との折り合いの付け方」や「集団の中での立ち位置の確保の仕方」、あるいは「一般的な常識」といった、いわゆる「社会の中での立ち回り方」が学べるのだろう。(行っていなかったのであくまで「だろう」と書く)。
わたしは、フリースクールでも高校でも、バイト先でも仲の良い子はいたけれど、それは自分と共通点があったり、ちょっと変わった人同士の集まりだったりして、関係の築き方が特殊だった。
だから何の脈絡もなく集められた集団で立ち回ることは苦手。いわゆる世間話ができない、興味のない相手にはとことん興味が持てない、とかそういう感じ。
新卒で会社に入ったとき、会社のほとんど誰とも仲良くなれなくてかなりの挫折感を味わったし、2社目ではその時の挫折感を引きずっていたのか、人間関係がうまく構築できないまま、心の病を再発して会社をやめてしまった。
そして今は定職に就けていない。その代わり、自分には何ができるのか、自分にとって心地よい環境がどんなものかを常識にとらわれず見つめ直そうとしている。
そしてもうひとつ、苦労とはズレるかもしれないけど、学校って「学ぼうと思うなら効率のいい場所」だったんだな、という事。自分で選んで入ることができる高校と大学に関しては特にそうだと思う。
今になって学びたいことが多くなり、「もっと勉強ちゃんとやっときゃ良かったなあ」と思うことがある。ただこれは行っていても思う人が多い気がする。
小中学校は地域差が大きいのでなんとも言えないけれど、それでも、わからないことがあれば聞きに行ける先生がいて、学ぶことができる環境に集中的にいることができる。
だから学校は、自分から目的を持って学ぼうとした場合、いい場所だったりもする。
とは言っても、人によって相性があるし、命を絶つほど思い詰めたり、怖くて動けなくなるほどなら、学校にこだわる必要は全くないと思う。
「学校に行く」以外にも選択肢はある
正直、苦労したことを書くか悩んだ。人間関係挫折するなら学校行かなきゃダメじゃん!って思われるかもしれない、と。それで余計に追い込んでしまわないかと。
でも、学校に行こうが行くまいが人は挫折する。これは真実だ。
それに実際に元不登校の人間がどう苦労したかを書かなければ、ここから先何を言っても嘘だと思ったからだ。
正直わたしは、苦労はしたけれど、その事については学びの機会だったと今は思える。
「労働に自分の価値を見いだして心が安定した」と書いたけど、労働することが出来なくなってしまった時、「自分の価値とは」というところを徹底的に考えさられた。
その時はものすごく辛かったし、乗り越えるのは時間もかかったけど、挫折をただの悲しい記憶で終わらせたくなかったんだ。
とはいえ「学校に行くこと」より「少しでも心を楽に、まずは生き延びること」を優先に考えれば選択肢はあると思う。
たとえば体力。体育の授業に出なくても、運動する方法はある。今ならYoutubeを見ながら家トレだってできるし、地域の市営プールや市営の体育館があればそこを利用するのもいいと思う。一緒にやる人がいた方がいいなら、地域のスポーツクラブやスクールに参加するのもいいと思うし、演劇やダンスをやるのもいいだろう。今ならオンラインで仲間を探すこともできる。
身体を動かすことは、ストレス発散にもなる。もちろんそこまでしなくても、軽いストレッチやお散歩でもいい。日差しに当たると元気が出るし夜も眠れる。
ビタミンやミネラルのサプリメントを使って栄養補給するのもおすすめ。
もちろん、出かけられるならお出かけもいいと思う。10代のうちは公共施設や公共交通機関は学割が効くので、新幹線とかも安くなる。
子供で不自由なこともあるかもしれないけど、こういう特権はどんどん使うといい。そういう意味でも通信制はオススメかも(在籍さえしていれば学割を取れるので)。
そして、人間関係も「合わない環境や、人との関わり方をしたことでエラーを起こした」と捉えれば「合う環境を見つけたり、人との関わり方を変えればいい」ということ。
たとえばフリースクールはもちろん、最近ではオンラインスクールという選択肢もある。お金がなければ図書館に行ったり、児童福祉施設もあるだろう。
どんな環境でも能力を発揮できる人もいれば、環境によって驚くほどパフォーマンスに差が出る人もいる。学校や集団で浮きがちな人は後者な人が多い。
けれどそれは悪いことじゃない。適材適所という言葉があるように、環境は自分で選べるし、選んで良いんだ。すぐには出会えないかもしれないけど、合う環境は必ずあるし、自分で作ることもできる。
そうは言っても今すぐに環境を変えることは難しいかもしれない。だからまず、同じ悩みを持つ人と気持ちを共有するのだけでもいい。特に今は手軽にネットでつながれるから、自分と同じ悩みを持つ人とも出会いやすい。安心出来る居場所があれば、心が楽になる。(もちろん怪しい人もいるので、リアルに会うのは慎重になる必要はあるけど)
勉強だって、そりゃ学校で学べるならそれが手っ取り早いけど、好きなことを学びたいなら、大学や専門学校は高卒資格さえあれば何歳でも入れるし、働きながら夜間や、放送大学、オンラインスクールなどで学ぶこともできる。
学校に行かない代わりに得たもの
わたし自身、学校に行けていた人たちを羨ましく思ったりすることもあった。理解されない苦しみを味わうことも。けど今は「学校に行っていればよかったなあ」とはあまり思わない。
わたしは多分もう一度やり直しても学校には行けない可能性の方が高いし、学校に行かなかったことで得られたものもある。
同世代に馴染めない代わりに、アルバイトなどで自分と異なる世代の人との接することができた。フリースクールで同じように学校に行けない子たちと出会うことで、自分だけじゃないということも知れた。
はみ出しものだからこそ、理解されなかったからこそ、自分はいろんな価値観を尊重しようと思えるようになった。
体力がないからこそ健康な身体の大事さを知れたし、人間関係を挫折したからこそ、自分を大事にしてくれる人のありがたさを知った。
学校に行かなければ苦労する、と大人は言うけれど、行っても苦労はするし、苦労の形が違うだけだと思う。
歩む道、通る道が違えば、見える景色も違うし、身に付く力も違う。どちらも等しく、人生の可能性と糧になる。
弱いままでも生きて
もし今10代の子になにか伝えられるとしたら、わたしは「学校に行ったほうがいい」「行かなくてもいい」に関しては、本当にどちらでもいいと思う。
「死にたい」と思ってもいい。けれど、生きていて欲しい、とは思う。
「死にたい」と思うことと「死を選ぶ」ことは似ているようで全然違うから。
「死を選ぶ」ということは、もう二度と「生を選べなくなる」ということだ。
生きていれば、頭と心と体を使って答えを探すことが出来る。だから、みっともなくても、苦しくても、生きていて。間違いながら、愚痴を吐きながら、親を呪いながらでもいい。
そして苦しみから抜け出すためには強くなるよりも、賢くなるんだ。
世界の広さを知ってほしいと思う。
これは海外に出ろということじゃなくて、もちろん可能ならそれも大いにアリだけど、頭と身体が柔軟なうちに、たくさんの価値観に触れて欲しいということ。知っていることが増えれば、楽になれることもある。自分の当たり前は誰かの当たり前じゃない。
そして、とにかく一人にはならないで。
わたしは家族関係はそんなに良くなかったけど、学校の先生、フリースクールのスタッフ、ネットでの友人などに救われた。
だからもし家族や教師、身近な友達に、自分と合う人がいなかったとしても、思わぬところで出会う誰かや、SNSで繋がる遠くの誰かが理解者だったりするんだ。
そうして苦しくて死にたくなるほど大変な人生を生き抜くことで、君にとっての武器が磨かれる。
それは自分にとっては当たり前のもので、今は気付かないかもしれないし、好きで鍛えたものじゃないかもしれない。
けど、それは学校に行った/行かなかったの違いが些細な事に感じられるような、輝ける人生の鍵になる。
辛かったら楽になりたいし、疲れたら休みたい。それは当たり前のことで、ぜんぜん悪いことじゃない。
自分の好きなことを見つけられないくらいなのは、それだけ弱っているということだし、それならなおさら、お休みの期間は必要だ。
ゆっくりでいい。少しずつでいい。
ネットの海で、たくさんの顔も見えない誰かが、きみの幸せな未来を祈ってるんだということを、どうか忘れないで欲しい。
【あとがき】8月31日の夜によせて
「8月31日の夜に」、というハッシュタグの存在を知ったのは、去年の秋だった。樫尾キリヱさんのnote「やさしい不登校入門シリーズ」を読んだのがきっかけ。
元不登校当事者で、寄り添うような語り口と、具体的でわかりやすい対策が記されていた。
もしかつての自分が不登校の真っ只中にこれを読んでいたらどんなに救われただろう、と思った。
このハッシュタグに寄せられた文章をいくつか読ませてもらったけれど、ほかにも優しい表現で書かれた文章が多かった。
わたしが書いた言葉は、正直、押し付けがましくて、傲慢で残酷かな、とも思った。
「生きてほしい」「希望はある」という言葉は、苦しみの渦中にいる人にとっては苦しいのかもしれないし、わたしは運が良くて、なんとかなったから言えている言葉なのだろうな、とも思う。
だからこそ、あくまでわたしには、自分の経験を通して思ったことを語ることしか出来ない。
そしてわたし自身も言葉を求めて彷徨って、何度も救われた。たとえネットの見知らぬ誰かの記事でも、これは縁だなと感じた出会いもあった。
だから、たとえ傲慢でも、心のどこかでその言葉を強く言い切ることを求めている人が、もしこの文章を読んでくれたなら、と思って、後半はあえて言い切る形で書いた。
わたしには、こんなにえらそうに言えるほど立派な実績もないし、わたしよりつらい境遇の子もいるだろうし、届かないかもしれない。半分は自分のためだけど、それでも、ここに書いたことは全て、心からそう思っていることだ。
最後に、こんなに長くて重い文章を、時間をかけてここまで読んでくれたあなたに感謝を。
たとえ10代でなくとも人生の辛い時期は誰しも必ずある。もしもこの記事を読んで、あなたの心に少しでも光が差したなら願ってもない。
最後までお読みくださりありがとうございます。この記事が気に入ったら♡を押してくださると嬉しいです🙂SNSでのシェア、サポート等もとても励みになります。